日本歴史地名大系 「長岡市」の解説 長岡市ながおかし 面積:二五九・九二平方キロ県の中央部に位置する。信濃川が旧魚沼郡の山岳地帯から急に平野部に出て、川幅広く緩やかに市域中央部を北流する地帯にあり、左岸に川西平野、右岸に川東平野の沖積地が広がる。近世は、川西はおおむね旧三島(さんとう)郡、川東はおおむね旧古志(こし)郡に属した。川西平野には西から西山丘陵が没し、川東平野には東から東山丘陵が没する。東山丘陵からは南から北へ太田(おおた)川(村松川)・柿(かき)川・栖吉(すよし)川などが発して、各々市域内で信濃川に合流する。西山丘陵に発する信濃川支流黒(くろ)川は丘陵東麓沿いにほぼ北流する。北は三島郡三島(みしま)町・同郡与板(よいた)町・南蒲原(みなみかんばら)郡中之島(なかのしま)村・見附市、東は東山丘陵で栃尾市、南は古志郡山古志(やまこし)村・小千谷(おぢや)市・三島郡越路(こしじ)町・柏崎市、西は西山丘陵で刈羽郡刈羽村飛地と同郡西山町に接する。道は沖積平野のほぼ中央、川東平野部の蔵王(ざおう)や長岡の城下町を中心に四方へ延びる。信濃川右岸沿いに並行して上は関東、下は新潟へ通じる三国街道(現国道一七号)、左岸沿いに並行して善光寺(現長野市)へ至る善光寺道あるいは信州道(現国道三五一号)、信州道を城下町対岸の大島本(おおじまほん)町で分岐し西山丘陵曾地(そち)峠(現柏崎市)越で柏崎や高田(たかだ)(現上越市)へ通じる高田往来、栖吉川沿いに走る会津への道(現国道三五一号)などが主要幹道。このほか栃尾郷へは見附を経由する刈谷田(かりやだ)川沿いの道や東山丘陵の榎(えのき)峠・森立(もつたて)峠・花立(はなだて)峠越の道があり、川西には与板へ通じる道、高田往来を分岐して西山丘陵稜線の薬師(やくし)峠越で浜(はま)街道(現国道一一六号)へ結ばれ、出雲崎(いずもざき)(現三島郡出雲崎町)・寺泊(てらどまり)(現同郡寺泊町)へ通じる道がある。長岡の地名は、慶長一〇年(一六〇五)一〇月六日堀直寄が広瀬(ひろせ)郷(現北魚沼郡広神村・守門村)の「きもいり」宛に発した郷中触示(穴沢吉太郎氏蔵)に「一、村々におゐて下代共非分之族申かけ候ハバ、則、目安を以急長岡へ可申来事」とある。〔原始・古代〕縄文前期の遺跡は西山丘陵黒川沿いの七間町(しちけんちよう)遺跡から県内最古の竪穴式住居跡が発掘されており、東山丘陵麓の柿川左岸金倉(かなぐら)遺跡から羽状縄文土器が出土している。発掘例が顕著なのは縄文中期から後・晩期にかけての遺跡で、多くは西山丘陵や東山丘陵の小流に面した東・南斜面や台地上に分布する。ことに西山丘陵の東辺にあたる関原(せきはら)丘陵上には馬高(うまだか)遺跡や三十稲場(さんじゆういなば)遺跡など火焔土器を伴う大集落跡が確認されている。渋海(しぶみ)川左岸の丘陵東麓にも中―後期の集落跡を伴う岩野原(いわのはら)遺跡や呪術的な遺物や実用的器形の土器を伴う藤橋(ふじはし)遺跡がある。 長岡市ながおかし 2005年4月1日:長岡市が刈羽郡小国町、三島郡越路町・三島町、古志郡山古志村、南蒲原郡中之島町を編入⇒【小国町】新潟県:刈羽郡⇒【越路町】新潟県:三島郡⇒【三島町】新潟県:三島郡⇒【山古志村】新潟県:古志郡⇒【長岡市】新潟県⇒【中之島町】[変更地名]新潟県 長岡市ながおかし 2006年1月1日:長岡市が栃尾市、三島郡与板町・和島村・寺泊町を編入⇒【長岡市】[変更地名]新潟県⇒【和島村】新潟県:三島郡⇒【寺泊町】新潟県:三島郡⇒【与板町】新潟県:三島郡⇒【栃尾市】新潟県 長岡市ながおかし 2010年3月31日:長岡市が北魚沼郡川口町を編入⇒【川口町】新潟県:北魚沼郡⇒【長岡市】[変更地名]新潟県 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「長岡市」の意味・わかりやすい解説 長岡〔市〕ながおか 新潟県中部,新潟平野の南部にあり,北部で日本海に面する市。南部に隣接する小千谷市の南東部に飛び地がある。1906年市制。1921年四郎丸村,1948年山通村の一部,1950年栖吉村,1951年富曽亀村,1954年宮内町と上川西村,深才村,日越村,王寺川村,福戸村,下川西村,黒条村,新組村,山本村,十日町村の 10村および六日市村の一部をそれぞれ編入して市域を拡大。2005年中之島町,越路町,三島町,山古志村,小国町の 4町 1村を編入。2006年栃尾市,与板町,和島村,寺泊町の 1市 2町 1村を編入。2010年川口町を編入。中心市街地は信濃川中流の右岸にあり,南北朝時代に蔵王堂城が築かれて信濃川べりの要衝となったが,その後,洪水による被害を避けて堀直寄が元和2 (1616) 年現市街地に移転。同 4年以後は牧野氏 7万4000石の城下町,信濃川水運の中継点として繁栄 (→長岡藩) 。明治1 (1868) 年の戊辰戦争で落城。1890年頃から東山油田が開発され,1899年に北越鉄道 (信越本線) ,1931年に上越線が開通したのに伴い,鉄鋼,機械器具,輸送用機械,製紙,縫製,家具などの工業も発達した。第2次世界大戦末期,戦災にあい,市街は焼失したが,全国の戦災都市にさきがけて復興都市計画を完遂。1963年には無雪都市を宣言,地下水利用の消雪道路計画が進められた。水田が開け,良質の米を産するほか,醸造業も盛ん。栃尾では江戸時代から栃尾紬として知られる織物工業が盛んで,合成繊維織物,メリヤス工業が中心産業。与板では刀鍛冶が古くから盛んで,のこぎりやかんななどの大工用刃物を産する。南東の山間部ではニシキゴイの養殖が行なわれ,川口の魚野川べりにはアユやコイを対象とした伝統の簗場がある。上越新幹線,北陸自動車道,関越自動車道,長岡東バイパスを含む交通網の整備により,発展の新段階に入り,長岡ニュータウンとして住宅を建設。隣接の工業団地,流通団地とともに開発が進む。長岡技術科学大学,新潟県立近代美術館,市立科学博物館がある。「牛の角突きの習俗」(→闘牛)は国の重要無形民俗文化財。馬高・三十稲場遺跡,藤橋遺跡,八幡林官衙遺跡,荒屋遺跡 (すべて国の史跡) や悠久山公園などがあり,中東部は長岡東山山本山県立自然公園,東端は奥早出粟守門県立自然公園,北端は佐渡弥彦米山国定公園に属する。国道352号線,403号線などが通る。面積 891.06km2(境界未定)。人口 26万6936(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by