鵜河庄(読み)うかわのしよう

日本歴史地名大系 「鵜河庄」の解説

鵜河庄
うかわのしよう

現柏崎市の鵜川流域、および鯖石さばいし下流左岸を庄域とし、東北は比角ひすみ庄、東は佐橋さばし庄に接する。庄名は宇川・宇河・鵜川などとも書く。中世史料に現れる庄内の地名としては、上条今泉じようじよういまいずみ(現宮之窪)新堂しんどう(現新道)・柏崎町・藤井ふじい(現藤井)半田はんだ(現半田)安田やすだ(現安田)紺崎こんざき(現不明)などがある。初見は「吾妻鏡」文治二年(一一八六)三月一二日条に載せる関東知行国乃貢未済庄々注文で「前斎院御領 預所前治部卿」として「宇河庄」とみえる。前斎院は鳥羽天皇の皇女頌子内親王、預所の前治部卿は藤原光隆。光隆の父清隆は大治四年(一一二九)から天承元年(一一三一)まで越後(公卿補任)、光隆の子雅隆は治承三年(一一七九)越後守(「山槐記」三月二六日条など)、光隆自身は養和元年(一一八一)越後を知行国としている(「玉葉」七月一日条)。当庄はこの間に成立したものであろう。「吾妻鏡」以外の鎌倉時代の史料としては、建仁三年(一二〇三)一〇月書写の法華経(新道三諦寺蔵)奥書に「宇川御庄新堂」とあるだけである。

南北朝に入ると、暦応四年(一三四一)四月一三日上杉朝定は「鵜河庄内安田条上方」を丹波光福こうふく(のちの安国寺、現京都府綾部市)寄進(「上杉朝定寄進状」安国寺文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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