細川綱利(読み)ほそかわ・つなとし

朝日日本歴史人物事典 「細川綱利」の解説

細川綱利

没年正徳4.11.12(1714.12.18)
生年:寛永20(1643)
江戸中期の熊本藩3代藩主。2代藩主光尚の長子,母は清水氏,幼名六丸。慶安2(1649)年7歳のとき父光尚が急逝したため藩分割の危機に直面したが,藩祖細川藤孝・忠興以来の功績,家中の団結を評価され,成人まで親戚小笠原忠真の監督下におくことを条件に,遺領相続を許された。江戸に住み,寛文1(1661)年初入国までは家老合議制により藩政が保たれた。江戸文化の導入に努め,63年におよぶ在任中に,水前寺成趣園(桃山式回遊庭園)の造築,相撲の吉田司家の招請,式内社疋野神社の再興,御座船波奈之丸の修理,赤穂浪士接待,在町の取り立てなど文治主義政策をとった。しかし,江戸風の華美な風俗の導入は保守派家老とのあつれきを生じ,諫言していれられず隠居する家老も出た。晩年にも永らく江戸に留まったので,江戸では国許に帰れば家臣の押し込めにあうので帰国しないのではないかと噂されたという。正徳2(1712)年隠居した。

(松本寿三郎)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「細川綱利」の解説

細川綱利 ほそかわ-つなとし

1643-1714 江戸時代前期-中期の大名
寛永20年1月8日生まれ。細川光尚(みつなお)の長男。慶安3年8歳で肥後熊本藩主細川家3代となる。年少のため親類の小倉藩主小笠原忠真(ただざね)が後見することで相続がゆるされた。寛文(かんぶん)元年国入りし,63年間藩主をつとめた。6年弟の利重に3万5000石を分与,熊本新田藩をつくった。正徳(しょうとく)4年11月12日死去。72歳。

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367日誕生日大事典 「細川綱利」の解説

細川綱利 (ほそかわつなとし)

生年月日:1643年1月8日
江戸時代前期;中期の大名
1714年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の細川綱利の言及

【熊本藩】より

…肥後国飽田郡府中(現,熊本市)に藩庁を置いた外様大藩。1587年(天正15)佐々成政が隈本城に封ぜられたのが起りで,領域は球磨郡を除く肥後国12郡であった。成政は翌年起こった肥後一揆の責を負って尼崎で切腹,肥後国は豊臣秀吉子飼の加藤清正(北半国19万石)と小西行長(南半国14万石)に分与された。この間秀吉の上使衆によって球磨郡を除く肥後国検地がなされ,肥後54万石の表高が確立した。ついで1600年(慶長5)清正は関ヶ原の戦で西軍に属した小西行長の旧領を合わせ,さらに同年天草郡と豊後国直入,大分,南海部3郡内との替地を許され,ここに肥後国の大半と豊後3郡にまたがる熊本藩領54万石が確定した。…

【細川の血達磨】より

…主人公の名をとって《大川友右衛門(おおかわともえもん)》とも題する。細川綱利侯に仕えた大川友右衛門は,江戸屋敷類焼の際,切腹して主家の重宝達磨の掛軸をみずからの腹中に収め,命にかえてみごと,お家の宝を守り通したといわれる。この血に染まった達磨が,細川の血達磨と呼ばれ,長く友右衛門の忠節がたたえられた。…

※「細川綱利」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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