経師ヶ谷
きようじがやつ
長勝寺の東方の谷と考えられる。「鎌倉志」「攬勝考」は弁ヶ谷の北にあり、村人がなまって「ちやうじケ谷」と称したと伝えるが、「風土記稿」は比企ヶ谷に続く谷で、妙本寺院家常住院が所在した所だという。谷名は表具師などの工人が住んでいたのに由来するのであろう(金兼藁)。
「吾妻鏡」元久二年(一二〇五)六月二三日条に、畠山重忠と一族が討滅された事件に際し、三浦義村が「経師谷口」で榛谷四郎重朝父子を謀殺したとあり、建長五年(一二五三)一二月二二日条には「丑尅、経師谷口失火、北風頻扇、余炎迄浜高御倉前、焼死者十余人」とあり、火勢が北風にあおられ余炎が浜高御倉前まで及んだとあるので当谷の場所が推定される。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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