金沢貞顕
没年:正慶2/元弘3.5.22(1333.7.4)
生年:弘安1(1278)
鎌倉後期の武将。父は顕時。母は遠藤為俊の娘。邸宅は赤橋。永仁2(1294)年に東二条院蔵人として宮廷に仕えた。乾元1(1302)年に六波羅探題南方,延慶2(1309)年に下向し評定衆・寄合衆に加わり長井宗秀の退任後に引付頭人に就任。翌年から正和3(1314)年まで六波羅探題北方にあった。翌4年に連署。5年寄合衆に加わる。正中3(1326)年,北条高時は執権を辞任し,長崎高資による弟・泰家の執権就任を阻止する動向のなか執権に就任したが10日間ほどで辞任した。執権就任は北条氏一族・得宗被官を含む得宗継承者選定にからむ内訌の調整の結果であった。南方在任当時の嘉元3(1305)年の北条時村暗殺では鎮西探題への転任が噂され,両度六波羅探題を経由するなど異例の経歴を持つ。文化面では,和漢の書籍を多数収集し金沢文庫を「日本国中ノ書籍ヲ収ム」ほどに充実させる一方,六浦荘内に瀬戸橋を完成させ鎌倉との交通網を整備し,唐船の派遣を行い造営料を確保し菩提寺・称名寺の金堂を修造した。京都の東山常在光院は貞顕を本願とする。公家との交渉では,三井寺の顕弁(貞顕の舎弟)による戒壇建立の企ては貞顕の後ろ盾があり,花園天皇を激怒させた室町院領の継承では大覚寺統に有利に処理した。500点ほど伝来する金沢貞顕の書状は鎌倉末期政治史の基本史料となっている。称名寺に画像と供養塔の五輪塔がある。<参考文献>前田元重「武家の文化」(『神奈川県史/各論編3/文化』),『金沢文庫資料図録/書状編1』,佐藤進一『鎌倉幕府訴訟制度の研究』
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金沢貞顕(かねさわさだあき)
かねさわさだあき
(1278―1333)
鎌倉幕府第15代執権。父は金沢流北条顕時(あきとき)。母は安達泰盛(あだちやすもり)の娘。法名崇顕(崇鑑)。1294年(永仁2)左衛門尉(さえもんのじょう)、1302年(乾元1)六波羅探題(ろくはらたんだい)南方、10年(延慶3)同北方、15年(正和4)連署(れんしょ)などを歴任し、26年(嘉暦1)執権となる。しかし、前執権北条高時(たかとき)の弟泰家(やすいえ)の反対を恐れてわずか10日にして辞任。寄合衆(よりあいしゅう)に参加。33年(元弘3・正慶2)5月22日、幕府の滅亡に際して一族とともに東勝寺(とうしょうじ)(鎌倉市葛西ヶ谷(かさいがやつ))において自刃。得宗(とくそう)専制下に小心翼々と身を処した好学家。金沢文庫の体裁を整え、発展に尽くした。
[奥富敬之]
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金沢貞顕 (かねさわさだあき)
生没年:1278-1333(弘安1-元弘3)
鎌倉幕府の15代執権。北条氏の一門,顕時の子。法名は崇顕。官位は越後守,武蔵守,修理権大夫,従四位上。六波羅探題(南方),評定衆,引付頭,六波羅探題(北方),1315年(正和4)連署となり,26年(嘉暦1)3月16日執権となったがわずか10日間で出家,引退した。33年5月鎌倉幕府の滅亡に際し,北条高時らとともに葛西ヶ谷の東勝寺において自刃した。和漢の典籍を書写校合し,金沢文庫の充実につとめた。また流鏑馬(やぶさめ)にも優れていた。墓は石造五輪塔で父顕時の墳墓地(称名寺境内)に立てられた。
執筆者:前田 元重
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金沢貞顕
かねざわさだあき
1278~1333.5.22
鎌倉末期の武将。従四位上・修理権大夫。執権。北条氏一門の顕時の子。評定衆・六波羅南方・引付頭人・六波羅北方などをへて,1315年(正和4)連署に就任。26年(嘉暦元)3月,執権北条高時の出家後,長崎高資に推されて執権となるが,高時の弟泰家らの反対によりまもなく出家,法名は崇顕(すうけん)。翌月,赤橋守時が執権に就任。33年(元弘3)一門とともに東勝寺で自害。父祖同様に学問を好み,多数の書籍を書写・収集した。
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金沢貞顕 かねざわ-さだあき
1278-1333 鎌倉時代の武将。
弘安(こうあん)元年生まれ。金沢(北条)顕時の3男。六波羅探題南方,同北方,連署などを歴任。正中(しょうちゅう)3年(1326)第15代執権となるが,前執権北条高時の弟泰家の反対をおそれて10日で辞任。学問をこのみ,金沢文庫の充実・発展につとめた。正慶(しょうきょう)2=元弘(げんこう)3年5月22日幕府滅亡に際して鎌倉東勝寺で自刃(じじん)。56歳。
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金沢貞顕
かねさわさだあき
[生]建長7(1255)
[没]元弘3=正慶2(1333).5.22. 鎌倉
鎌倉幕府 15代執権 (在職 1326.3.16~26.) 。顕時の子。越後守。金沢文庫の整備に努めた。幕府滅亡の際,鎌倉で自殺。
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世界大百科事典(旧版)内の金沢貞顕の言及
【金沢文庫】より
…鎌倉中期,金沢実時によって創設された文庫。武蔵国久良岐郡六浦(むつら)荘金沢郷(現,横浜市金沢区金沢町)の居館敷地内に設けられた。その時期は明白でなく,一応,実時が病をえて金沢の自邸に引きこもった1275年(建治1)ころとされている。金沢氏の居館跡は明らかでないが,現在の[称名寺]に隣接した西方の谷と考えられ,文庫はその後方の山際のあたりに独立の家屋として建てられた。後世この付近は御所ヶ谷と呼ばれ,文庫が設けられたと思われる東北側の小さな谷は文庫ヶ谷と称されている。…
【図書館】より
…人類の知的所産である図書をはじめとする記録情報を収集・蓄積し,利用しやすい形に整序あるいは加工して,求めに応じて検索し,利用に供する社会的機関をいう。かつて日本では,〈文庫〉〈書籍館〉の名でも呼ばれたが,近年は情報のデータベースとしての役割も果たすところから〈情報センター〉とも呼ばれる。 〈図書〉という言葉は《易経》繫辞伝に〈河は図を出し,洛は書を出す,聖人これに則る〉とあるように[河図洛書](かとらくしよ)を指す。…
【六波羅探題】より
…北条兼時は1284年(弘安7)12月から87年8月まで南方,93年(永仁1)正月まで北方,北条時敦は1310年(延慶3)7月から15年(正和4)6月まで南方,20年(元応2)5月まで北方に在職した。特異なのは金沢(かねさわ)貞顕の場合である。1302年(乾元1)7月から08年11月まで南方の任にあった貞顕はいったん鎌倉に帰った後,10年6月北方として上洛し,13年11月まで在任したが,再度の六波羅勤務には不満であったという。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」