百科事典マイペディア 「金沢貞顕」の意味・わかりやすい解説
金沢貞顕【かねさわさだあき】
→関連項目北条高時
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鎌倉幕府第15代執権。父は金沢流北条顕時(あきとき)。母は安達泰盛(あだちやすもり)の娘。法名崇顕(崇鑑)。1294年(永仁2)左衛門尉(さえもんのじょう)、1302年(乾元1)六波羅探題(ろくはらたんだい)南方、10年(延慶3)同北方、15年(正和4)連署(れんしょ)などを歴任し、26年(嘉暦1)執権となる。しかし、前執権北条高時(たかとき)の弟泰家(やすいえ)の反対を恐れてわずか10日にして辞任。寄合衆(よりあいしゅう)に参加。33年(元弘3・正慶2)5月22日、幕府の滅亡に際して一族とともに東勝寺(とうしょうじ)(鎌倉市葛西ヶ谷(かさいがやつ))において自刃。得宗(とくそう)専制下に小心翼々と身を処した好学家。金沢文庫の体裁を整え、発展に尽くした。
[奥富敬之]
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
1278~1333.5.22
鎌倉末期の武将。従四位上・修理権大夫。執権。北条氏一門の顕時の子。評定衆・六波羅南方・引付頭人・六波羅北方などをへて,1315年(正和4)連署に就任。26年(嘉暦元)3月,執権北条高時の出家後,長崎高資に推されて執権となるが,高時の弟泰家らの反対によりまもなく出家,法名は崇顕(すうけん)。翌月,赤橋守時が執権に就任。33年(元弘3)一門とともに東勝寺で自害。父祖同様に学問を好み,多数の書籍を書写・収集した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…鎌倉中期,金沢実時によって創設された文庫。武蔵国久良岐郡六浦(むつら)荘金沢郷(現,横浜市金沢区金沢町)の居館敷地内に設けられた。その時期は明白でなく,一応,実時が病をえて金沢の自邸に引きこもった1275年(建治1)ころとされている。金沢氏の居館跡は明らかでないが,現在の称名寺に隣接した西方の谷と考えられ,文庫はその後方の山際のあたりに独立の家屋として建てられた。後世この付近は御所ヶ谷と呼ばれ,文庫が設けられたと思われる東北側の小さな谷は文庫ヶ谷と称されている。…
…人類の知的所産である図書をはじめとする記録情報を収集・蓄積し,利用しやすい形に整序あるいは加工して,求めに応じて検索し,利用に供する社会的機関をいう。かつて日本では,〈文庫〉〈書籍館〉の名でも呼ばれたが,近年は情報のデータベースとしての役割も果たすところから〈情報センター〉とも呼ばれる。 〈図書〉という言葉は《易経》繫辞伝に〈河は図を出し,洛は書を出す,聖人これに則る〉とあるように河図洛書(かとらくしよ)を指す。…
…北条兼時は1284年(弘安7)12月から87年8月まで南方,93年(永仁1)正月まで北方,北条時敦は1310年(延慶3)7月から15年(正和4)6月まで南方,20年(元応2)5月まで北方に在職した。特異なのは金沢(かねさわ)貞顕の場合である。1302年(乾元1)7月から08年11月まで南方の任にあった貞顕はいったん鎌倉に帰った後,10年6月北方として上洛し,13年11月まで在任したが,再度の六波羅勤務には不満であったという。…
※「金沢貞顕」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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