大町村(読み)おおまちむら

日本歴史地名大系 「大町村」の解説

大町村
おおまちむら

[現在地名]鎌倉市大町一―七丁目・材木座ざいもくざ一―二丁目・由比ゆいはま一―三丁目・御成おなり町・笹目ささめ町・佐助さすけ一―二丁目

鎌倉の中央部をほぼ東西に走る大町大路おおまちおおじに沿った村で、北から西部をなめり川が流れ、北は浄明寺じようみようじ村・雪下ゆきのした村・小町こまち村・おうぎやつ村、東は三浦郡久野谷くのや(現逗子市)、南は乱橋材木座みだればしざいもくざ村、西は長谷はせ村に接する。大町とは小町に対する呼称で、中世の鎌倉の商工業活動の中心的地域の一つであった。

「吾妻鏡」承久二年(一二二〇)二月一六日条に「大町以南焼亡」、同月二六日条に「大町上失火」とある。建長三年(一二五一)一二月三日と文永二年(一二六五)三月五日、鎌倉中の商業地域が七ヵ所あるいは九ヵ所に指定されたとき(吾妻鏡)、両年に大町と米町こめまち(穀町)がみえ、当時は商工業者の住居が多かったと思われるが、「町大路辺」の失火で八田知重らの家が焼けているから(同書嘉禎二年一一月二四日条)、有力御家人の屋敷も存在した。


大町村
おおまちむら

[現在地名]白石市大鷹沢大町おおたかさわおおまち

東は伊具いぐ高倉たかくら(現角田市)、西は鷹巣たかのす村、南は三沢みさわ村、北は犬卒都婆いぬそとば村に接し、中央部を白石川の支流高田たかだ川が北流する。丘陵地が多く山間の耕地は小規模で、多くの人工堰堤を造り灌漑用水としている。南部を角田かくだ街道が東西に横切る(「片倉領内図」斎藤敏夫家蔵)。地字愛宕あたごは縄文晩期の遺跡散布地であり、高田川扇状地の沖の沢おきのさわは奈良時代の遺跡散布地である。

村名は「安永風土記」によると、古くは大谷村と称したといい、一族大町将監の先祖大町備前が当地に館を構えたことに由来すると伝える。大町氏が村主として早くからいたことは事実のようで、「伊達正統世次考」の寛正二年(一四六一)八月二九日条に「今按大町名諱不知、大町氏世臣称一族住刈田郡大町邑因為氏」とある。このことは延宝(一六七三―八一)の御知行被下置御帳(仙台藩家臣録)の大町備前書上にもみえる。天文七年(一五三八)の段銭古帳に「大まちかた 三十仁〆仁百五十文 ミさハ」とある分が当村をさし、この頃三沢村の一部として扱われていたのであろう。


大町村
おおまちむら

[現在地名]伊予三島市豊岡町大町とよおかちようおおまち

嶺北れいほくの西部に位置し、東は西寒川にしさんがわ村、南は岩原瀬いわらぜ村と鷹野山たかのやま村、西は五郎野いらの村と豊田とよだ村に接し、北はひうち灘に面する。西の村境を豊岡川が流れる。東西約一一町、南北約一〇町。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)宇摩うま郡の項に「大町村 日損所、柴山有」とみえる。

「和名抄」にみえる宇摩郡山口やまぐち郷に属したとされる。享保六年(一七二一)の伊予国宇摩郡大町村明細帳(長野家文書)に「年号不知福嶋左衛門大夫様御検地之由申伝候」とあり、江戸時代初期には諸領主支配を経て、おおむね幕府領として幕末に至ったが、松山藩預所時代が長かった。

享保六年の大町村明細帳によると享保頃には、家数一二八、うち本百姓八〇、水呑百姓一七、家来三一。


大町村
おおまちむら

[現在地名]酒田市大町・若浜町わかはまちよう緑町みどりちよう末広町すえひろちよう東大町ひがしおおまち東町あずまちよう四ッ興野よっごや・みずほ・山居さんきよ一―二丁目・千石町せんごくちよう一丁目・かめさき一丁目・船場町ふなばちよう二丁目・東中ひがしなか口町くちまち東栄町とうえいちよう

鵜渡川原うどがわら村の北東、最上川右岸に位置し、最上街道が通る。村名は、東禅寺とうぜんじ城が四ッ興屋(野)付近にあった頃の城下町にあたることによると伝える。かつて地内に東禅寺沼があり、東禅寺畑の地名も残っており(大町の沿革誌)、平安期から鎌倉期にかけての土器が出土している。また、永正(一五〇四―二一)頃に始まるという酒田の最上川左岸から右岸への移転は、当初この地に試みたという。文禄年間(一五九二―九六)、東禅寺城主甘糟景継が山谷やまや(現飽海郡平田町)から当地まで大町溝を開削して以後村落が形成されたとされる。

元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録に後田大町村とみえ、八六三石余、ほかに大町のうち山居島九石余。


大町村
おおまちむら

[現在地名]大町市大字大町(高根町たかねまちを除く)

現大町市の中央部、現高根・借馬かるま松崎まつさきなどの集落に囲まれた所に位置する。西の北アルプスに源を発する鹿島かしま川のつくった広大な扇状地の扇端部と、北の木崎きざき湖から南下してくる農具のうぐ川のもたらした沖積地に立地し、東は南鷹狩みなみたかがり山・鷹狩山・霊松寺れいしようじ山などが村を限る。大町の名は現大町市大字大町下仲町しもなかまち辺りに残っており(「慶安二年大町村検地帳」大町市役所蔵)、本町の意で、原初的には固有の地名といえず、これについて古くは高根ととなえたのではないかといわれている。それは西隣に高根新田たかねしんでん村が慶安四年(一六五一)に開発されていて、そちらへ大町村の古名が移されているからであると推定されるが確証はない。

大町の名は、天文二三年(一五五四)に仁科盛政が長生寺渋田見長盛にあてた奉書(栗林文書)に「丹生子・大町之内之やく所」と出ていることを文献上の初見とする。


大町村
おおまちむら

[現在地名]小山市羽川はねかわ

東は荒井あらい村、南は喜沢きざわ村に接する日光街道の宿駅。慶安郷帳に「太町新田」とあり、元禄九年(一六九六)の助郷帳(添野一夫文書)と享保六年(一七二一)の助郷帳(古川明文書)では新田しんでん町、「徳川実紀」慶長一六年(一六一一)八月三日条に芋柄いもがら・新田、元禄一五年の「御伝馬方旧記」では芋がら宿・新田宿、宿村大概帳では新田宿とみえ、旧高旧領取調帳では大町新田宿としている。なお宿村大概帳では宿駅を新田宿、村方を大町新田と記している。慶長年中は小山藩領、元和五年(一六一九)宇都宮藩領、同八年下総古河藩領、貞享二年(一六八五)幕府領となる。慶長一六年常陸・下野両国で蜂起した賊党は、幕命を受けた久永重勝ら三人の手勢により鎮圧され、八月三日小山および当地など九〇余ヵ所で梟首となった(徳川実紀)。天保一四年(一八四三)の宿明細帳(大塚信文書)によれば、小山宿からは一里一一町、小金井こがねい宿(現下都賀郡国分寺町)までは二九町の距離にあり、宿内往還の長さ一八町、町並は南北に三町余続き、道幅は三間半より四間半であった。


大町村
おおまちむら

[現在地名]安佐南区安古市やすふるいち町大町

中須なかす村の西北に位置し、東南流するやす川の沖積小平野に集落が集まる。南西に武田たけだ山がそびえ、南は北下安きたしもやす、西は相田あいたの各村に接する。村の西山麓には弥生後期の大町貝塚、同時期の遺物散布地である片山かたやま遺跡があり、安川北の権現ごんげん山南斜面の丘陵にある白山しろやま古墳は破壊された箱式石棺の石材と短甲片・鉄刀・鉄鉾・鉄斧などが出土、それらから前期古墳とされる。同二号墳は箱式石棺の側石・蓋石などの内面に丹が塗られ、頭蓋骨・勾玉・管玉・鉄鏃・刀子などの出土物より後期古墳と推定される。また当地から安川対岸の緑井みどりいへかけては、条里遺構が検出された。

天文二三年(一五五四)正月二八日付と同六月一七日付の二通の仏護寺領打渡坪付(「知新集」所収)には、上安仏護寺領として「大町」や村内の「片山」などの地名がみえ、同二四年一二月四日付の毛利元就宛行状(「閥閲録」所収竹内平兵衛家文書)に「上安麦田」と記されるのがこの地で、当村域は安川上流北側の上安かみやすに含まれていた。


大町村
おおまちむら

[現在地名]羽咋市大町

四柳よつやなぎ村の北、邑知おうち潟北東縁の低平地に立地。「延喜式」兵部省にみえる撰才駅の一比定地。酒井さかい村で内浦街道から分岐する田鶴浜たつるはま往来が通る。大町C遺跡から「大町」と記された墨書土器が出土、形状から平安時代のものとみられている。治承五年(一一八一)一一月二四日の某下文(「雑録追加」県立図書館蔵)に「大町保」とみえ、得田とくだ保の住人得田章通が大町保を含む四ヵ所の地頭職を安堵されている。承久三年(一二二一)九月六日の能登国田数注文に「大町保」とみえ、もとは田二町五段五であったが、同年の検注では一町七段七に減少している。元亨元年(一三二一)一二月一六日の関東下知状(宮内庁書陵部所蔵文書)によれば、正嘉二年(一二五八)三月二八日文章博士藤原茂範が同保を領有することになったが、ほどなく小柴こくぬぎ(現鹿島町)地頭得田章真の祖父円久(章家)が押妨したため、茂範側は幕府に訴え、文永元年(一二六四)幕府より押妨停止の命を得て、以降茂範家が二〇年間当知行に及んだ。


大町村
おおまちむら

[現在地名]牟礼町大町

牟礼村の東、五剣ごけん(三六六・二メートル)の南東山麓と南部の丘陵に挟まれた平野部に集落が発達した。東は志度しど湾に面し、役戸やくどの湊は沿岸漁業の中心として早くから開けていたようである。水利に乏しく、灌漑は多く溜池によった。寛永国絵図には、高松城下から当村の中央を通って志度村(現大川郡志度町)に至る志度街道と、役戸から八栗やくり寺への参道が描かれている。羽間はざま遺跡から細形銅剣と弥生式土器が出土、村内各地から土器・石鏃などが採集され、駒押越こまおしごえ古墳・姫神ひめかみ古墳など後期の円墳が散在する。丹僧たんぞう寺跡から藤原初期の鐙瓦などが出土。


大町村
おおまちむら

[現在地名]河北町谷地やち

谷地の中央部にあり、北は上工藤小路かみくどうこうじ村、東は前小路まえこうじ村、南は新町しんまち村、西は松橋まつはし村に接する。村内は上組・下組に分れる。支配は元和八年(一六二二)上山藩領、寛永四年(一六二七)以後幕府領。高は寛永一九年検地では大町村上組一千五一〇石、大町村下組一千石余(最上記)。延宝五年(一六七七)の最上拾ヵ領村々田畑高辻帳(河北町立図書館蔵)では、大町村上組の田方は高一千六一〇石余・反別五三町三反余、畑・屋敷方の高八六石余・反別九町八反余、ほかに新田畑の高一〇石余・反別一町八反余。大町村下組の田方は高一千一〇九石余・反別三五町四反余、畑・屋敷方は高五七石余・反別六町三反余、ほかに新田畑の高二九石余・反別四町八反余。


大町村
おおまちむら

[現在地名]穴水町大町

山王さんのう川・小又おまた川の合流した下流域右岸、内浦街道筋に沿い、対岸は川島かわじま村。天文元年(一五三二)七月の諸橋六郷・南北棟数注文写(諸橋稲荷神社文書)によれば、南北なんぼくのうち穴水大町で棟役を負担する役屋は二五間とある。戦国後期頃の能登内浦村々給人注文写(諸橋文書)では、大町は穴水のうちに含まれ、長氏の知行分であったが、その隣に記される「向町」の給人は栂雪軒とあり、大町とかかわる地名と思われるが詳細は不明。天正八年(一五八〇)四月、穴水周辺を制圧していた長連竜は、被官の大原宮松に穴水大町の代官職を安堵している(「長連竜安堵状」長文書)。同一〇年九月三日の前田利家の検地帳写(吉村文書)によれば、「阿なミつ大町」の田畠・屋敷の総面積は三〇町七反大二二六歩で、その所有者として百姓六〇名のほかに来迎らいこう寺と神主がみえる。


大町村
おおまちむら

[現在地名]調布市菊野台きくのだい一―三丁目・国領町こくりようちよう八丁目・西つつじヶ丘にしつつじがおか三丁目・入間町いりまちよう二丁目

東・西・北は金子かねこ村、南は小足立こあだち(現狛江市)と接し、南部を川が南東へ流れる。田園簿に大町村とみえ、田四八石余・畑六五石余。柴田勝家の孫勝重を初代とする旗本柴田氏の一給支配。元禄四年(一六九一)の割付状断簡(鈴木家文書)には同氏の家臣と考えられる庄又右衛門の名が記載される。元禄の地方直し以降は幕府領(「風土記稿」・旧高旧領取調帳など)。検地は寛永一八年(一六四一)に行われた(「検地帳」調布市郷土博物館蔵)


大町村
おおまちむら

[現在地名]御調町大町

江田えた村の北に位置し、御調川の支流江国えぐに川沿いの村。御調川南岸には平坦地、江国川流域の開析谷には緩傾斜地があり、南東部には標高差二五〇メートルを超える山地部が連なる。村内の牛皮うしのかわ城跡からは御調川流域の村々を一望できる。平坦地には条里制の遺構が認められ、二日市ふつかいちの地名を残すところから、かつて市場が存在したことが知られる。

元和五年(一六一九)の備後国知行帳では、高一四四八・九六二石とあるうしかわ村に含まれる。旧版「広島県史」所収の正徳(一七一一―一六)頃の記録に村名がみえ、高二〇〇・五八石。


大町村
おおまちむら

[現在地名]岸和田市大町

下池田しもいけだ村の南東、牛滝うしたき川の左岸、久米田くめだ丘陵北斜面と熊野街道(小栗街道)との交わる付近に位置する。久米田池から流下するあまノ川が村の東部を南から北へ流れ、熊野街道が村の北部を北東から南西に走る。もと大坊おおまち村と称したと伝え(和泉志)、大坊の地名は年欠の久米多寺免田注文(久米田寺文書)八木やぎ郷内の里名としてみえる。


大町村
おおまちむら

[現在地名]天童市大町

北のみだれ川と南の押切おしきり川に挟まれた複合扇状地扇端部に位置し、両川の洪水に難渋した。南は大清水おおしみず村・成生なりゆう村、西は今町いままち村。寛永一三年(一六三六)の保科氏領知目録では高四三九石余。正保郷帳では田方二七二石余・畑方一六六石余。元禄一〇年(一六九七)には二八一石余に減少し、田九町余に対し、畑は二一町四反余で田の二倍以上にあたっている(「村明細帳」武田文書)。寛永元年には田一六町余・畑二九町七反余であったのが(「検地帳」同文書)、このように減少したのは両川の洪水による川欠けのためであった。


大町村
おおまちむら

[現在地名]勝田町大町

梶並かじなみ川を挟んで真加部まかべ村の東に位置し、北は向原むかいはら村。津山城下から吉野よしの郡に至る往来筋に立地する。正保郷帳では田三二四石余・畑一二二石余(都合高は四五六石余とあり、いずれが正しいか不明)。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳には改出高二九四石余・開高六〇石余とあり、村位は中。美作国郡村高并戸数里程事(武家聞伝記)によると延宝(一六七三―八一)頃と考えられる戸数四二(うち宮前八・松尾五・小塩一〇・ミくす一〇・べじゃう五・才前二・おきを二)、延宝四年からは津山藩主の弟森長俊領。


大町村
おおまちむら

[現在地名]門前町東大町ひがしおおまち

別所べつしよ村の東、はつヶ川上流北岸の河岸段丘と盆地に立地。天正年間(一五七三―九二)の一〇月五日付三輪吉宗書下(道下村文書)に「一尺 大町」とみえ、八ヶ川の鮭川役として一尺を賦課されていた。正保郷帳では高六八石余、田方三町余・畑方一町五反余。承応三年(一六五四)の村御印の高六八石余、免四ツ(能登奥両郡収納帳)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高七四石余、免四ツ七歩、小物成は山役二一匁(三箇国高物成帳)。享保二〇年(一七三五)の家数六(「奥両郡高免付込帳」中谷文書)


大町村
おおまちむら

[現在地名]西条市大町

西条平野の中央部を占め、北端は現西条市の中心街に接する。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の新居郡の項に「大町村 日損所、小川有、芝原有」とあり、一柳直重の遺領西条三万石のうち五千石は次男直照が相続したが、当村は直照の所領であったという。村名は直重が就封当初、すでに町場が形成されていた当村に邸を置いたことに由来するという。

加茂かも川の旧流路は、右岸の八堂はちどう山の下から当村と福武ふくたけ村の間を通り、当村と北隣の朔日市ついたちいち村内を北流して海に注いでいた。光明こうみよう寺の住職常真が氾濫を防ぐため、慶長年間(一五九六―一六一五)願い出てより短い距離で海へ入る現在の流路に改修したと伝えられている。


大町村
おおまちむら

[現在地名]富合町大町

北の緑川、南の浜戸はまど(廻江川)に挟まれた平野部にある。東は赤見あかみ(現城南町)、北は杉島すぎしま村に接する。永正一七年(一五二〇)九月三〇日の菊池武包書下(志岐文書)に「守富之内(中略)同所大町十二町」とあり、志岐弾正少弼(遠弘)に宛行われ、年未詳の知行目録案(同文書)にも同内容の記述がみえる。「国誌」は「吾妻鏡」仁治二年(一二四一)五月二三日条にみえる大町庄の所在地について、玉名たまな郡大町(現玉名市)や上益城郡甲佐こうさ郷大町(現甲佐町)と並んで推定地の一つとするが、推論にとどまる。慶長国絵図に村名がみえる。杉島手永に属し、正保郷帳に高七五八石一斗余、うち田方七一二石四斗余・畠方四五石七斗余とある。


大町村
おおまちむら

[現在地名]綾部市五津合いつあい町 大町

上林かんばやし谷のほぼ中央部にあり、上林川の本流に畑口はたぐち川が合流する地域に位置する。村内を若狭街道が通る。当村以東の上林川本谷ほんたにを上林三分一さんぶいちとよぶことがあった(丹波負笈録)。旗本城下藤懸氏領。

弘化四年(一八四七)防火のため密集する四〇戸のうち一一戸は村域内の皿田さらだ大杉おおすぎに移転した(「清水平右衛門記録日記」清水家文書)


大町村
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[現在地名]鏡野町大町

東は上横野かみよこの(現津山市)、南は真経さねつね村、北は岩屋いわや村、西は養野ようの(現奥津町)に接する香々美かがみ川沿いの山村。正保郷帳に高一八二石余、うち田方九二石余・畑方九〇石とある。「作陽誌」では家数七一・人数三一五。「今別置宗重村」とあるが、元禄一〇年(一六九七)の美作国郷村帳では大町村二二〇石余・同宗重分一四石余とある。同年の美作国郡村高辻帳では改出高三〇石余、開高二二石余。宗重分は当村の北端で岩屋村境に近い集落をさす。山林資源の豊かな当村では、農間余業に炭焼が行われた。


大町村
おおまちむら

[現在地名]足利市南大町みなみおおまち

国境を南東流する矢場やば川西岸に位置し、対岸は堀込ほりごめ村、西は上野国山田やまだ植木野うえきの(現群馬県太田市)、北は同市場いちば(現同上)。上野国山田郡に属する。寛文八年(一六六八)の上野国郷帳に村名がみえ、田高一七二石余・畑高二八四石、上野館林藩領。元禄一六年(一七〇三)上野国一国高辻(群馬県渋川市立図書館蔵)では幕府領と旗本松平領、旧高旧領取調帳では幕府領。近世後期の家数四四(「上野国御改革組合村高帳」群馬県大谷文書)。慶応三年(一八六七)の足利組織屋連名帳(秋間正二文書)によると、機屋は南郷機屋組一四(うち惣代二)


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[現在地名]岩出町大町

高塚たかつか村の西にある。北西は中迫なかばさ村。「続風土記」は名義不詳としながらも「此村岩出の渡し場より粉河及根来への街道に商売も多く家居町作りなりしより、大町と呼ひて直に村名となりしなるへし、今も田地の字に大町後なといふ名あり、清水村の中に新町といふ名あるによれは、街道改まれる後大町廃して新町起れるなるへし」と記し、かつてはこの地を粉河こかわ(現粉河町)根来ねごろ寺への道が通っていたのではないかと推定している。中世は石手いわで庄に含まれたと思われる。

慶長検地高目録によれば村高二一六石余。


大町村
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[現在地名]甲佐町大町

北は有安ありやす村、南は仁田子にたご村、南東は横田よこた村と接し、西北に緑川を挟んで船津ふなつ村に対する。近世は甲佐手永に属し、「国誌」に「田中村中熊村等ノ小村アリ、当村旧ハ大町ト云ル市店也シ所ト云」とある。宝暦一二年(一七六二)の甲佐手永手鑑では竈数四二・男一〇七・女一一八、牛四・馬二八、本高三〇六石八斗余、田六町九反一畝余・畑三町五畝余、新地田畑二町五反八畝余、諸開(野開・請藪)四反九畝余と茶床がある。


大町村
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[現在地名]富山市大町

富山城下南の出入口にあたり、北は小泉こいずみ村、南は下堀しもほり村。飛騨街道(布市道)に沿って南北に細長い町筋が展開する。寛永一六年(一六三九)以降富山藩領。正保郷帳では高七一〇石余、田方四二町九反余・畑方四町四反余。寛政二年(一七九〇)の高物成品々手鏡では古高八三三石余・定免四ツ三歩三厘、定小物成銀は三匁。


大町村
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[現在地名]福井市大町

福井城下の南にあり、北は花堂はなんどう村、南は江端えばた村・下莇生田しもあぞだ村。北陸街道から少し東にはずれてはいるが、市場の開かれた地と考えられる。真宗の古刹専修せんしゆう寺があった。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図に村名がみえ、高五八〇・〇九二石。


大町村
おおまちむら

[現在地名]長岡市大町・大町一―三丁目・高畑たかばたけ

鉢伏はちぶせ村の南西、土合どあい村の南東にある。天正村名考(温古之栞)に「大巻目十一軒」と伝えるのが当村という。元和四年(一六一八)の長岡藩知行目録に村名がみえ、高八四石二斗余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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