日本歴史地名大系 「大町村」の解説
大町村
おおまちむら
- 神奈川県:鎌倉市
- 大町村
鎌倉の中央部をほぼ東西に走る
「吾妻鏡」承久二年(一二二〇)二月一六日条に「大町以南焼亡」、同月二六日条に「大町上失火」とある。建長三年(一二五一)一二月三日と文永二年(一二六五)三月五日、鎌倉中の商業地域が七ヵ所あるいは九ヵ所に指定されたとき(吾妻鏡)、両年に大町と
大町村
おおまちむら
- 宮城県:白石市
- 大町村
東は
村名は「安永風土記」によると、古くは大谷村と称したといい、一族大町将監の先祖大町備前が当地に館を構えたことに由来すると伝える。大町氏が村主として早くからいたことは事実のようで、「伊達正統世次考」の寛正二年(一四六一)八月二九日条に「今按大町名諱不知、大町氏世臣称一族住刈田郡大町邑因為氏」とある。このことは延宝(一六七三―八一)の御知行被下置御帳(仙台藩家臣録)の大町備前書上にもみえる。天文七年(一五三八)の段銭古帳に「大まちかた 三十仁〆仁百五十文 ミさハ」とある分が当村をさし、この頃三沢村の一部として扱われていたのであろう。
大町村
おおまちむら
- 愛媛県:伊予三島市
- 大町村
慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の
「和名抄」にみえる宇摩郡
享保六年の大町村明細帳によると享保頃には、家数一二八、うち本百姓八〇、水呑百姓一七、家来三一。
大町村
おおまちむら
元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録に後田大町村とみえ、八六三石余、ほかに大町のうち山居島九石余。
大町村
おおまちむら
- 長野県:大町市
- 大町村
現大町市の中央部、現高根・
大町の名は、天文二三年(一五五四)に仁科盛政が長生寺渋田見長盛にあてた奉書(栗林文書)に「丹生子・大町之内之やく所」と出ていることを文献上の初見とする。
大町村
おおまちむら
- 栃木県:小山市
- 大町村
東は
大町村
おおまちむら
天文二三年(一五五四)正月二八日付と同六月一七日付の二通の仏護寺領打渡坪付(「知新集」所収)には、上安仏護寺領として「大町」や村内の「片山」などの地名がみえ、同二四年一二月四日付の毛利元就宛行状(「閥閲録」所収竹内平兵衛家文書)に「上安麦田」と記されるのがこの地で、当村域は安川上流北側の
大町村
おおまちむら
- 石川県:羽咋市
- 大町村
大町村
おおまちむら
大町村
おおまちむら
谷地の中央部にあり、北は
大町村
おおまちむら
大町村
おおまちむら
- 東京都:調布市
- 大町村
東・西・北は
大町村
おおまちむら
大町村
おおまちむら
- 大阪府:岸和田市
- 大町村
大町村
おおまちむら
大町村
おおまちむら
大町村
おおまちむら
大町村
おおまちむら
- 愛媛県:西条市
- 大町村
西条平野の中央部を占め、北端は現西条市の中心街に接する。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の新居郡の項に「大町村 日損所、小川有、芝原有」とあり、一柳直重の遺領西条三万石のうち五千石は次男直照が相続したが、当村は直照の所領であったという。村名は直重が就封当初、すでに町場が形成されていた当村に邸を置いたことに由来するという。
大町村
おおまちむら
北の緑川、南の
大町村
おおまちむら
- 京都府:綾部市
- 大町村
弘化四年(一八四七)防火のため密集する四〇戸のうち一一戸は村域内の
大町村
おおまちむら
大町村
おおまちむら
大町村
おおまちむら
大町村
おおまちむら
大町村
おおまちむら
大町村
おおまちむら
大町村
おおまちむら
- 新潟県:長岡市
- 大町村
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報