鎌倉初期の武士。武蔵国の大族秩父氏の一族で,畠山荘を領して畠山氏の祖となった重能の子。源頼朝の挙兵にあたり,はじめ平家方について三浦氏を攻めたが,のち帰順して平家追撃軍に加わり各地に転戦した。典型的な坂東武者としての評価が高く逸話も多いが,1187年(文治3)梶原景時の讒言(ざんげん)によって謀反の罪を着せられそうになった際,〈謀反を企てているとの風聞が立つのは武士の眉目〉と語って嫌疑を一蹴したという話は有名である。しかし1205年平賀朝雅を将軍にたてようと企図する北条時政とその後妻牧の方の陰謀にまきこまれ,まず子の重保が鎌倉由比ヶ浜に誘殺され,ついで本領をたって鎌倉に向かう途にあった重忠にも大軍がさし向けられた。このとき重忠は,本領に帰っての決戦を勧める郎党の言を制し寡勢でこの大軍を迎え撃ち,一族郎党とともに討死したという。
執筆者:外岡 慎一郎
重忠は浄瑠璃,歌舞伎で,いわゆる捌役(さばきやく)の役どころとして形象化された。したがって歌舞伎では生締(なまじめ)(鬘(かつら)の髷の名称)が多く用いられる。浄瑠璃《壇浦兜軍記(だんのうらかぶとぐんき)》(1732初演)では平景清の恋人阿古屋(あこや)を堀川御所の白洲で裁く名判官秩父庄司重忠として登場,智勇兼備でしかも情ある武将として描かれる。近松作の《出世景清》にも〈重忠は四相(しそう)を悟る〉の詞章がある。前記《兜軍記》の登場人物である岩永左衛門が赤っ面の敵役であるところから,重忠は岩永と対照的にものわかりのよい人物としてとらえられている。歌舞伎では〈曾我〉の世界に登場する。
執筆者:小池 章太郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
鎌倉初期の武将。重能(しげよし)の子。母は三浦義明(よしあき)の女(むすめ)。系図によれば桓武(かんむ)平氏の流れで、畠山を称したのは武蔵(むさし)国畠山庄(しょう)(埼玉県深谷(ふかや)市川本地区付近)の庄司(しょうじ)であった重能からである。1180年(治承4)石橋山(いしばしやま)の戦いでは初め頼朝(よりとも)に敵対したが、やがて頼朝に帰服し、木曽義仲(きそよしなか)や平氏の追討、さらに1189年(文治5)の奥州征伐などに戦功をたてた。その間、伊勢沼田御厨(いせぬまたのみくりや)(三重県松阪市)で起こった地頭代(じとうだい)の押妨(おうぼう)事件に関連して地頭であった重忠が捕らえられ、梶原景時(かじわらかげとき)の讒言(ざんげん)で逆心を疑われた際、頼朝に逆心を抱いていないこと、武士に二言はないから起請(きしょう)文など書く必要はないことを主張し、頼朝に信用された話は有名である。1190年、1195年(建久1、6)頼朝再度の上洛(じょうらく)に先陣を勤めるなど頼朝に仕えたが、1205年(元久2)子重保(しげやす)(母は足立遠元(あだちとおもと)の女)が北条時政(ときまさ)の後妻牧(まき)氏の女婿平賀朝雅(ひらがともまさ)と争って時政に殺されたあと、6月22日重忠も北条軍と武蔵二俣川(むさしふたまたがわ)(横浜市保土ケ谷(ほどがや)区)で戦って討ち死にした。彼の死後、妻(北条時政の女)は足利義純(よしずみ)と再婚し、その子泰国(やすくに)が畠山の家名を継いだ。重忠は大力をもって聞こえたが、また音楽的才能にも恵まれ、その性質は重厚であったと伝えられている。
[新田英治]
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(海津一朗)
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1164~1205.6.22
鎌倉前期の武将。武蔵国の在庁筆頭である有力御家人。秩父平氏の一族で父は重能,母は三浦義明の女。1180年(治承4)石橋山の戦では源頼朝に敵対したが,その後帰服。源義仲や平氏の追討では源義経に従って戦功をあげた。奥州合戦でも活躍し所領をえた。伊勢国の所領沼田御厨の代官の濫妨によって罪を負ったがひとことの弁解もせず,剛毅にして誠実な人物として「吾妻鏡」に記される。秩父氏の家督として武蔵国の御家人を統制したが,武蔵国務を握る北条氏との対立を深めた。1205年(元久2)子の重保が,北条時政の後妻牧の方の女婿平賀朝雅と争って時政に討たれ,重忠も武蔵二俣川で北条義時軍と戦い敗死。
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出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…秩父重弘の子重能(しげよし)が武蔵国畠山荘(埼玉県大里郡江南町付近)の荘官となって畠山氏をおこし,一時源義朝に属した。重能の子畠山重忠は,源頼朝の挙兵にあたり,平氏に味方したが,まもなく頼朝に帰順し,有力御家人となり,同国菅谷(比企郡嵐山町菅谷)に居館を構えた。しかし1205年(元久2)子重保が平賀朝雅と争ったことから,一族とともに北条時政に誘殺され,家が絶えた。…
…このとき義時は,政子の命を受け,比企一族が頼家の子一幡を擁して小御所にこもったのを攻撃し,のち一幡を殺害した。05年(元久2)継母の牧の方は時政に畠山重忠を讒言(ざんげん)し,時政は義時に命じて重忠を討たせた。義時はやむをえず武蔵の二股川で重忠を討ったものの,重忠の無実を信じており,彼には不本意な事件であった。…
※「畠山重忠」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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