綾里村(読み)りようりむら

日本歴史地名大系 「綾里村」の解説

綾里村
りようりむら

[現在地名]三陸町綾里

西は赤崎あかさき(現大船渡市)、北は越喜来おきらい村にそれぞれ山嶺で接し、南から東は海に面し、北から南にかけてすね崎・綾里崎・小黒こぐろ岬・小路こみち岬が海に突き出す。北部の大森おおもり(四七九・四メートル)はその山容から古来綾里富士と称される。南東綾里崎に立石たていし(三五九メートル)がある。村名は宝暦一一年(一七六一)の「気仙風土草」に昔、綾を織る姫がいたことにちなむとあり、また越喜来・吉浜よしはま唐丹とうに(現釜石市)の三ヵ村とともに俗に奥四ヶ浜おくしがはまとよばれたとある。応永八年(一四〇一)八月一二日の道光寄進状(小友華蔵寺文書)に「気仙郡綾里郷」とみえ、同郷の大蔵分塩月割三斗五升が華蔵けぞう(現陸前高田市)に寄進されている。正保郷帳では田二一貫九二五文・畑四八貫六六三文、ほかに新田一貫五〇五文とある。宝永二年(一七〇五)人数改によれば総人数一千六三三、うち塩煮一千二七七、鉄砲数一三(気仙史料)。「封内風土記」の家数約三二〇、石浜いしはまみなと・小迫・田浜たはま野之前ののまえ白浜しらはま沙子浜すなごはま小石浜こいしはまの小名をあげる。元禄三年(一六九〇)の本判一枚七分七毛(気仙史料)

海岸は綾里崎を軸として南浦北浦に分れる。南浦には田浜浦・湊浜みなとはま石浜などを結ぶ小港泊があり、北浦(現綾里湾)白浜とよばれ港泊は少なく、越喜来湾に隣接している。元禄一一年の「仙台領道程記」では田浜浦について「潮之無構舟泊吉南風悪」とし、唐桑からくわ(現宮城県本吉郡唐桑町)まで一六里、片岸かたぎし浦まで一五里で、ともに荒渡と記す。また田浜浦には海上掟の札が懸けられていた(同年「気仙郡古記」)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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