石浜(読み)いしはま

精選版 日本国語大辞典 「石浜」の意味・読み・例文・類語

いしはま【石浜】

  1. 東京都台東区の北東部、橋場、清川一帯の旧地名。正平七年(一三五二新田義興足利氏と戦った古戦場室町時代には千葉氏の石浜城も築かれ、船着場奥州街道の町として繁栄した。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

日本歴史地名大系 「石浜」の解説

石浜
いしはま

隅田川に面し、浅草のやや上流にあたる河岸の通称。今津いまづ(今戸)橋場はしばなどを含んでいたものらしい。待乳まつち山に連なる岩盤が川に面していたことから起こった地名かと推定される。中世の隅田川本流は現在の白鬚しらひげ橋の上流から寺島てらじま(現墨田区)の東側を経て南へ流れていたと推定されるので、石浜(今津・橋場)付近が浅草を中心とする西岸への荷揚場となり、武蔵・下総国境の要衝として栄えていたものとみられ、鎌倉時代後期成立の「義経記」には江戸重長の有力な根拠地として描かれている。弘安四年(一二八一)には一遍が石浜に宿して同行の時衆の病を癒したといい(一遍上人絵伝)、現橋場一丁目の浄土宗保元ほうげん寺が時宗の石浜道場の後身と伝承されている。また下総中山なかやま法華寺(現千葉県市川市)三世の日祐が延文三年(一三五八)に石浜法華道場の日慶に授与した題目曼荼羅(現佐賀県小城町光勝寺蔵)が伝えられている。


石浜
いしはま

[現在地名]女川町石浜

女川湾北岸に位置し、北は御前浜おんまえはまに接し護天坂ごてんざか峰まで、東はきりさきに続き崎山さきやまという所から石浜分、西はみやさきでいのはさまという所までが村の範囲であった。女川湾の北岸の宮ヶ崎から石浜・桐ヶ崎竹浦たけのうら一帯の海岸は断崖で岩石に富むため、石浜の地名が生れたと推測される(女川町誌)。慶長一六年(一六一一)のセバスチャン・ビスカイノの「金銀島探検報告」に石浜の地名があり、サンアントンと名付けられた良港として出てくる。正保郷帳に田一三五文・畑六三八文とある。牡鹿郡遠島女川組大肝入扱いのうち。藩政期を通じ蔵入地で、「牡鹿郡万御改書上」によれば、元禄年間(一六八八―一七〇四)には村高一貫四文、うち田一三五文・畑八六五文で(数字は原本ママ)、茶畑一九文・海上高一一七文、人頭九人、男六五・女四八、石浜在家東西一五間・南北三町二三間があり、肝入は清右衛門であった。


石浜
いしはま

[現在地名]塩竈市浦戸石浜うらといしはま

かつら島の東部にある集落。正保郷帳によると田一貫三七〇文・畑四八七文。「安永風土記」では田一貫三七〇文・畑九九九文、一円蔵入地。人頭二〇人、家数二七、男六八・女五八。船数二〇(小晒舟一・さっぱ舟一六・かっこ舟三)、「右舟何も御日肴代壱ケ年ニ六貫五百六拾七文上納仕候御役御免」とある。御林四ヵ銘。鎮守は山神社。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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