縄瀬村(読み)なわぜむら

日本歴史地名大系 「縄瀬村」の解説

縄瀬村
なわぜむら

[現在地名]高崎町縄瀬

大牟田おおむた村の東に位置し、南端を高崎川が東流し、東端を同川を合流した大淀川が北流する。元禄国絵図に同川は縄瀬川と記され、広さ四〇間、深さ二尺五寸で歩渡しとみえる。北郷忠相譜(旧記雑録)および「庄内平治記」によると、天文一一年(一五四二)二月一二日に北郷方の軍勢が北原氏領の志和池しわち(現都城市)・縄瀬などの麦作を刈り、獺越うそごえ(現都城市)に乱入して合戦となっている。慶長四年(一五九九)からの庄内合戦の際、島津家久は縄瀬平に番所を設置し、入田親増がここに勤番している(「入田氏系図」入田文書)。なお年未詳の朝倉氏宛の島津氏老中平田歳宗・町田久倍等連署坪付写(朝倉文書)に「桶渡之門」九反余がみえ、小名として観音免の「堂の前」、荒神の用途を出していたとみられる「加ミの川」などが記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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