日本歴史地名大系 「能義郡」の解説 能義郡のぎぐん 面積:三〇〇・一九平方キロ伯太(はくた)町・広瀬(ひろせ)町県の東部に位置し、北は安来市と八束(やつか)郡東出雲町・八雲(やくも)村、東は鳥取県西伯(さいはく)郡西伯町(旧伯耆国会見郡)、南は同県日野(ひの)郡日南(にちなん)町(旧伯耆国日野郡)と仁多(にた)郡横田(よこた)町、西は大原郡大東(だいとう)町・仁多郡仁多町に接する。安来市域はもと当郡に所属しており、同市成立前は北は中海に臨んでいた。郡内には中国山地北側に源を発する飯梨(いいなし)川と伯太川の二つの大きな川があり、北に流れ安来市を経て中海(斐伊川)に入る。この流域に沿って集落がある。現郡域の大部分は山地性の土地で、東は要害(ようがい)山(二八一・二メートル)・メイゲ平(ひら)山(二二九・一メートル)、南は鷹入(たかいり)山(七〇六メートル)・猿隠(さるがくれ)山(八一六・九メートル)・玉峰(たまみね)山(八二〇・三メートル)、西は三郡(さんぐん)山(サンコオリともいう。八〇六メートル)・天狗(てんぐ)山(六一〇・四メートル)・京羅木(きようらぎ)山(四七三メートル)などを境界としている。東の伯太町安田関(やすだせき)(手間)、南の市原(いちはら)峠(広瀬町と横田町の境)、西の毛無(けなし)越(広瀬町と八雲村の境)などを越える古い交通路があった。現郡域のうち比較的平地の多いのは広瀬町広瀬一帯、伯太町母里(もり)・井尻(いじり)一帯である。郡名の訓は「和名抄」東急本国郡部に「乃木」、「拾芥抄」国郡部に「ノキ」とあり、異訓はない。〔古代〕能義郡域はもと意宇(おう)郡に属していたが、「出雲国風土記」に記される意宇郡一一郷中の過半と賀茂(かも)神戸を割いて能義郡が設置されたと考えられる。その時期は不詳だが、延長五年(九二七)に撰進された「延喜式」に郡名の記載があるのでこれ以前であろう(ただしその後の修訂過程の可能性もある)。能義は風土記にみえる野城(のき)駅に由縁するとみられ、同書は野城駅について「郡家の正東二十里八十歩なり。野城大神の坐ししに依り、故、野城と云ふ」と記す。野城大神は現安来市の能義(のき)神社(野城神社)の祭神とされる。承平年間(九三一―九三八)に成立した「和名抄」の高山寺本には能義郡の郷として舎人(とね)・安来・口継・屋代(やしろ)・山国(やまくに)・母国・母理(もり)・野城・賀茂・神戸(かんべ)の一〇郷が記され、東急本にはこのほか楯縫(たてぬい)があり、母国はない。元和古活字本も東急本と同じ一〇郷を載せるが、口継を口縫(くぬい)とする。なお郡設置時かのちかは不明だが、旧来仁多郡三処(みところ)郷に属していた現広瀬町南部の比田(ひだ)地域も能義郡に編入されたと考えられている。野城駅は「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条にもみえ、能義神社の鎮座する能義町辺りに比定される。飯梨川沿いであり、手間(てま)を越えてきた山陰道がここで飯梨川を渡河したのであろう。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by