意宇郡(読み)おうぐん

日本歴史地名大系 「意宇郡」の解説

意宇郡
おうぐん

県の北東部に位置し、北西部は宍道湖に面する。北東の中海の中央部には八束やつか大根だいこん島がある。南部には大平おおひら(四一〇・三メートル)そら(四一〇・七メートル)天狗てんぐ(六一〇・四メートル)京羅木きようらぎ(四七三メートル)などが連なり、来待きまち川・忌部いんべ川・意宇いう川などが北流し宍道湖または中海に注ぐ。近世の郡域は現在の八束郡宍道町・玉湯たまゆ町・八雲やくも村・東出雲町・八束町および松江市の南部を含む地域で、北は中海や宍道湖を挟んで島根郡・秋鹿あいか郡・楯縫たてぬい郡、西は出雲郡・神門かんど郡、南は大原郡能義のぎ郡、東は中海を挟んで伯耆国会見あいみ郡に接する。郡名は古代・中世にはオウと読み、近世以降はイウとよばれた。なお「出雲国風土記」では当郡内に能義郡が含まれ、「和名抄」「延喜式」の成立以降に当郡から独立したとみられる。

〔古代〕

「出雲国風土記」の意宇郡の郡名伝承に八束水臣津野命が国引きを終えたのち、「意宇杜に御杖衝き立てて、「意恵」と詔りたまひき。故、意宇と云ふ」とみえ、「和名抄」東急本国郡部は「於宇」と訓ずる。「日本書紀」斉明天皇五年(六五九)是歳条に出雲国「於友郡」、「万葉集」には「飫宇」とある。また平城宮跡出土木簡には「出雲国意宇郡飯梨郷中男作物海藻三斤籠重漆両 天平勝宝七歳十月」とみえる。風土記には当郡に母理もり屋代やしろ・楯縫・安来やすぎ山国やまくに飯梨いいなし舎人とね大草さくさ山代やましろ拝志はやし・宍道の一一郷が載せられ、「和名抄」は能義郡に舎人・安来・楯縫・口縫くぬい・屋代・山国・母理・野城のき賀茂かも神戸かんべの一〇郷、意宇郡に宍道・来待・拝志・神戸・忌部・山代・大草・筑陽つきやの八郷を所載する。風土記は一一郷のほかに余戸あまりべ里、野城・黒田くろだ・宍道の三駅、出雲・賀茂・忌部の三神戸を載せる。郡家は出雲国府と同じく大草郷にあったとされ、現松江市大草おおくさ町六所神社付近に比定される。天平五年(七三三)時の意宇郡司は大領外正六位上勲一二等出雲臣広島、少領外従七位上勲一二等出雲臣、主政外少初位上勲一二等林臣、擬主政無位出雲臣、主帳無位海臣、無位出雲臣が知られる(天平六年「出雲国計会帳」正倉院文書、風土記)

意宇郡家から東の手間てまを越えて伯耆国会見郡へ通ずる通道が置かれ、また大原郡家へは木垣きがき(現八十山)、出雲郡家へは佐雑さそう(現宍道町の出鼻)、島根郡家へは朝酌あさくみ(現松江市)をそれぞれ越えて通道が通っていた。意宇郡家には意宇軍団があり、前掲出雲国計会帳には意宇団兵士蝮部臣稲主・意宇軍団二百長出雲臣広足がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報