臼井庄(読み)うすいのしよう

日本歴史地名大系 「臼井庄」の解説

臼井庄
うすいのしよう

印旛沼南西に成立した庄園。臼井郷(現佐倉市)を中核とし、庄域は印旛沼に注ぐ神崎かんざき川やしん川流域と鹿島かしま川の中下流左岸に及び、現佐倉市西部、四街道市、八千代市北部、船橋市北部に広がっていたとみられる。天福二年(一二三四)正月一二日の大神宮司庁宣(小朝熊社神鏡沙汰文)には臼井郷、文永六年(一二六九)一一月一〇日の卜部兼文勘文(壬生新写文書)に臼井郡とみえる。これらによると同郷(郡)住人の南無妙法師が小朝熊社(伊勢神宮摂社)の神鏡を盗み遠江国橋下はしもと宿(現静岡県新居町)辺りに埋めたと白状したという。彼は熊野詣の途次この神鏡二枚を盗み、伊勢大古曾おおごそ(現三重県津市)の地頭右馬允のもとに身を寄せたらしい。臼井郷とすれば佐倉市臼井一帯に比定される庄内の郷名と考えられる。当庄を名字の地とする臼井氏は、千葉常兼の子の臼井六郎常康を祖とし、神保・星名・山無・鹿渡・小名・志津・小竹など庄内の郷村を名字の地とする一族がいた(神代本千葉系図)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報