県の北部、利根川下流右岸に位置する県内最大の沼。もとは周囲四七キロ、面積二〇平方キロほどであったが、現在は中央部が干拓されて、北部調整池(五平方キロ)と西部調整池(五・五平方キロ)に二分され、二つの池を印旛捷水路が結ぶ。池は最深で約二メートル。北部調整池と利根川は
中世までは香取海(香取浦)の一部とされた。戦国時代の佐倉(現酒々井町)は印旛沼・利根川水系によって広く関東各地と結び付いていた。天正四年(一五七六)北条氏照の被官船として
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
千葉県北部,旧印旛郡のほぼ中央,利根川下流にある沼。かつての沼の形はW字形で,周囲47km,面積20km2,最深所2m,両総台地の水を集める鹿島川と神崎川が沼に流入し,長門川から利根川に排水していた。かつては利根川の増水とともに逆流し,沼の周辺はしばしば水害に襲われた。長門川がつくった逆デルタは有名な地形である。近世の3回の干拓計画はいずれも失敗したが,1946年農業用地造成を目的とする国営の干拓事業が開始され,63-69年水資源公団によって大改造が行われた結果,沼の面積と形態が大きく変わった。沼は北部調整池(5km2)と西部調整池(5.5km2)に二分され,両者を水位調整水路でつなぎ,沼の北部,中部,西部に936haの干拓水田を造成した。こうして沼は京葉臨海工業地帯の工業用水と都市用水,干拓地の農業用水の源となり,沼の水は長門川から印旛機場によって利根川へ,疎水路を通り大和田機場によって東京湾へ排水されている。周縁には国の重要文化財の寺院が多く,佐倉惣五郎の伝説にちなむ甚兵衛渡し(1968年甚兵衛大橋の完成によって廃止)もあり,県立印旛手賀自然公園に含まれるが,かつての面影はすでにない。
執筆者:菊地 利夫
江戸時代には,干拓,治水,水運の利益を得るため,沼の西端平戸村から検見川村まで延長約17kmの掘割を掘り,沼の水を江戸湾に落とそうとする工事が3回行われた。第1回目は,1724年(享保9)に平戸村の染谷源右衛門が幕府に出願したことから始まる。新田開発政策を推進していた幕府はこれを許可し,源右衛門に6000両を貸与して工事を請け負わせて着手したが,請負人,出資人の資金が不足して中断された。第2回目は,大規模な殖産興業政策を採っていた老中田沼意次の手で着手された。新田開発,治水,水運を目的に,82年(天明2)に調査を始め,85年には幕府の手で工事をおこし,翌年には計画の2/3が竣工したが,おりからの利根川の洪水により掘割も破壊され,老中田沼の失脚とともに工事も中断された。第3回目は,天保改革の一環として行われた。1842年(天保13)に,二宮尊徳らも参加した勘定奉行の現地見分と試掘が行われ,翌年6月に,因幡鳥取藩,出羽鶴岡藩,駿河沼津藩,筑前秋月藩,上総貝淵藩に普請役を命じ,掘割工事を分担させた。工期を10ヵ月として7月に着工した。土性の堅い高台,〈けとう〉と呼ばれる軟弱な地盤など,難所が数ヵ所あり工事は難航した。工事の早期完成と技術的困難さを大量の労働力の投下でカバーしようとしたため,工事を分担した5藩は巨額にのぼる工事費にあえいだ。大名側からの不満,幕府内の意見対立もあり,閏9月の老中水野忠邦の罷免とともに工事を幕府の直営に移し,翌年6月には工事を中止している。第3回目の工事のおもな目的は,老中水野が,掘割の川幅をめぐって町奉行兼勘定奉行鳥居忠燿(燿蔵)と対立したさい,利根川を航行した全長27m,幅5mにおよぶ高瀬船を通行させるために河床の幅を10間(18m)とすることを主張していることから,水運にあったと考えられる。佐藤信淵は,1833年に著した《内洋経緯記》のなかで印旛沼掘割工事に触れ,新田開発と同時に,房総半島,常陸,さらには奥羽の物資を浦賀水道を通ることなく江戸に運ぶことを可能にする点を指摘し,江戸防備の観点からその意義を論じている。外国艦船の江戸湾封鎖による海運の途絶が引き起こす江戸の大混乱についての当時の識者の指摘,海防掛目付井戸弘道が,その対策の観点から印旛沼工事を論じていること,ペリー来航のさいにも掘割工事の再開が論議されていることなどから考えると,外国の対日侵攻,その江戸湾封鎖による物資廻漕の途絶,それによる江戸市中の大混乱と幕府の危機を乗り切るため,常総,奥羽の物資を浦賀水道を利用することなく江戸に供給することを可能にする,銚子→利根川→印旛沼→検見川→江戸の水運ルートの設定を意図した海防政策の一環といえよう。
執筆者:藤田 覚
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
千葉県北部、利根川(とねがわ)下流の低地に形成された沼。鹿島(かしま)川と長門(ながと)川が流入し、新川(花見川)を通じて東京湾に排水される。成田市、佐倉市、印西(いんざい)市と、栄町にまたがる。かつては面積20.5平方キロメートルの沼であった。近世以来干拓が進められてきたが、1968年(昭和43)に沼の中央が干拓され、北印旛沼5.1平方キロメートルと西印旛沼5.6平方キロメートルに二分された。周囲26.4キロメートル、最深部は1.8メートルで浅く、二つの沼は印旛捷水路(しょうすいろ)で連絡している。この地域は、古くは常陸(ひたち)川が流れ、下総(しもうさ)台地の侵食谷がせき止められて香取海(かとりうみ)とよばれる入り江状地形をなしていた。しかし、江戸幕府によって利根川の流路が銚子(ちょうし)へ改修されて以後、低湿な沖積地が形成されて印旛沼が成立した。鹿島川、神崎(かんざき)川、高崎川などが流入する印旛沼は、かつて長門川で利根川とつながっていたので、逆流によって洪水を受けた際に遊水池の役割を果たした。そこで印旛沼には逆デルタの形成をみ、水田冠水の害も出た。そのため数次にわたって干拓が進められ、とくに田沼意次(たぬまおきつぐ)、水野忠邦(ただくに)ら幕府の要人が新田開発を意図して江戸湾への堀割をつくるために尽力をしたが、十分な成果をあげられなかった。
第二次世界大戦後の食糧増産と、その後の京葉工業地域への工業用水や、都市・農業用水確保のために、農林水産省、水資源開発公団(現、水資源機構)が干拓事業と引水工事を引き継ぎ(1963)、沼の中央部に1400ヘクタールの水田が生まれ、1969年工事は完了した。
一帯は県立印旛手賀自然公園(いんばてがしぜんこうえん)に属し、湖畔にはヨシ、マコモの水生植物が茂り、カモ、カイツブリなどの水鳥も多いので、佐倉市には野鳥の森が設けられ、ハイキング客も多い。コイ、フナ、タナゴなどの絶好の釣り場ともなっている。JR成田線下総松崎(しもうさまんざき)、京成電鉄京成臼井(うすい)、京成佐倉、北総鉄道印旛日本医大駅下車。
[山村順次]
印旛沼は江戸時代に4回干拓が計画され、すべて失敗した。第1回は1663年(寛文3)に幕府・代官の指導により新利根(しんとね)川を開鑿(かいさく)し、下利根川や印旛沼、手賀沼などの干拓を町人、村の請負で推進したもの。一部、布鎌(ふかま)二十四新田や埜原(やわら)十四新田などの成立をみたものの、ほとんど失敗に帰した。第2回は1724年(享保9)に千葉郡平戸村(八千代市)の源右衛門(げんえもん)(染谷(そめや))らが幕府に上申し、新田方井沢弥惣兵衛為永(いざわやそべえためなが)の指導を受けたもの。同郡検見川(けみがわ)(千葉市)に至る17キロメートル余の堀割を開く計画であったが、資金難のため挫折(ざせつ)。第3回は幕府代官宮村孫左衛門高豊(たかとよ)の提唱で、印旛郡惣深(そうふけ)新田平左衛門(香取(かとり))、千葉郡島田村治郎兵衛(信田(しのだ))が1780年(安永9)に計画したもの。江戸、大坂の町人が出資し、1785年(天明5)には一部にソバやヒエが作付けされたが、翌年6月の洪水で諸施設が流失した。8月、推進者の老中田沼意次(おきつぐ)が失脚するに及び、工事は中止。第4回は1843年(天保14)老中水野忠邦(ただくに)が天保(てんぽう)の改革の一環として、鳥取、庄内(しょうない)、沼津、秋月、貝淵(かいぶち)など5藩の藩主に手伝普請(てつだいぶしん)を命じたもの。新田開発よりも物資輸送と利根川の排水を主目的にした分水路の掘鑿に重点があった。しかしまもなく忠邦が失脚したため、工事は中止となった。
[大谷貞夫]
『栗原東洋著『印旛沼開発史』1部・2部(1972、1976・印旛沼開発史刊行会)』▽『山田安彦・白鳥孝治・立本英機編『印旛沼・手賀沼――水環境への提言』(1993・古今書院)』▽『白鳥孝治著『湿地の文化、再生――印旛沼から』(2000・梨の木舎)』▽『鏑木行広著『天保改革と印旛沼普請』(2001・同成社)』
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出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
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