臼井城(読み)うすいじょう

日本の城がわかる事典 「臼井城」の解説

うすいじょう【臼井城】

千葉県佐倉市臼井田にあった中世から江戸時代初めにかけての平山城(ひらやまじろ)。千葉氏支流の臼井氏の居城。千葉氏の本城の本佐倉城(印旛郡酒々井町~佐倉市)の前線拠点であり、かつ交通の要衝にあったために、上杉謙信をはじめ数多くの武将の攻撃を受けた。一度も戦いを経験しなかった本佐倉城とは好対照である。平安時代末期の1114年(永久2)、千葉氏の初代当主の平常兼の子・常康(臼井氏を名乗った)が建てた居館が臼井城の起源ともされるが、この居館がその後の臼井城かどうかは定かではない。14世紀半ば、臼井氏の中興の祖といわれる臼井興胤が本格的城郭として整備したとされる。1455年(康正1)から1483年(文明15)にかけて、関東一円で鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺したことに端を発した享徳の乱が起こったが、この乱に関連して起こった千葉氏の内紛による境根原合戦で、千葉自胤(よりたね)(千葉氏当主)に敗れた千葉孝胤は、臼井持胤の守る臼井城に籠城した。1479年(文明11)、この城は自胤を支持する太田道灌率いる扇谷上杉氏の軍勢に攻められ、7ヵ月に及ぶ籠城戦の末、落城した。自胤はこの城に城代を置いたが、間もなく孝胤が奪回している。その後、小弓城(千葉市中央区)を本拠とした小弓公方足利義明と古河公方の足利高基・晴氏父子との対立が激しくなると、臼井城主の臼井景胤は小弓公方に味方して千葉氏宗家とは立場を異にしたが、1538年(天文7)の第一次国府台合戦で足利義明が戦死すると千葉氏に帰参した。景胤の死後、生実城(小弓城)の原胤清の子、胤貞が家督を継いだ臼井久胤の後見となったことから、臼井城は実質的に原氏の支配下に置かれた。1561年(永禄4)、久胤を城主とする臼井城は、上杉謙信小田原攻めに呼応した里見氏の武将で大多喜城(夷隅郡大多喜町)の正木大膳に攻められて落城、久胤は結城城(茨城県結城市)の結城晴朝を頼って脱出したが、1564年(永禄7)、家老の原胤貞が同城を奪還した。1566年(永禄9)、同城は上杉謙信と里見義堯・義弘父子により攻められ、落城寸前の事態になったが、北条氏の加勢により落城を免れている。1574年(天正2)、原氏の本城の生実城が里見氏によって落城したため、以後、臼井城が原氏の本拠となった。1590年(天正18)の豊臣秀吉の北条氏攻め(小田原の役)の際、原氏は徳川氏に敗れ、徳川家康が関東に入部すると、臼井城には譜代の酒井家次が3万石で入城した。しかし、家次は1604年(慶長9)、上野国高崎に移封となり、これに伴い、臼井城は廃城となった。この間、1593年(文禄2)に、城内からの出火により城は灰燼に帰している。往時の臼井城は千葉一族の城の中でも有数の規模で、周囲を深い堀と急崖、さらに印旛沼に囲まれ、謙信が攻めあぐねるほどの堅城だった。同城の主要部分は現在、臼井城址公園となっており、曲輪(くるわ)、土塁、空堀、虎口、石垣などの遺構が残っている。二ノ郭の周囲の深い堀の跡などはかつての堅城ぶりを物語る遺構である。この城は印旛沼のほとりにあったが、沼の水位が下がったこともあり、現在の城跡は印旛沼から少し離れた場所にある。京成本線京成臼井駅から徒歩約25分。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

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