鎌倉幕府創立期の武将。父は下総権介平常重,母は常陸の豪族平政(幹)の娘,妻は武蔵の豪族秩父重弘の娘。下総権介。千葉荘検非違所,相馬御厨(そうまのみくりや)下司職のほか立花郷(東荘(とうのしよう))にも所領をもち,平安末期から千葉亥ノ鼻(いのはな)台の館に住む。保元の乱に源義朝に属し,1180年(治承4)9月,石橋山の合戦で敗れた源頼朝が房総に逃れるとこれに応じ,富士川の合戦で平維盛の軍を破った頼朝が上洛しようとしたとき,東国経営の重要性を説いてその後の幕府の創立に貢献。以後常胤は御家人の筆頭として重視され,行賞などもつねに最初に与えられた。84年(元暦1)の木曾義仲と平家追討の軍に参加,源範頼を助けて西海の統治に努め,義経離反後の京都の治安維持に派遣され,89年(文治5)の奥州征討には東海道軍の大将軍に任じられた。こうした功により,下総国守護となり平安期に分立していた一族諸流を統一,岩城郡好島荘預所職のほか陸奥の海道諸郡,美濃国蜂屋荘,肥前国小城郡晴気保,薩摩国島津荘寄郡など多くの地頭職を与えられた。
1192年(建久3),征夷大将軍に任じられた頼朝が公卿の風をまねて政所下文に改めた際,常胤はこれを最初に与えられたが,頼朝直判の下文を要請した。これは常胤など有力御家人と頼朝との私的信頼関係を示す逸話として知られる。常胤は素朴で誠実な人柄で頼朝の信頼は厚く,政子が頼家を懐妊したときには妻が腹帯を整え,その誕生の七夜の儀は妻子とともにこれを主催,実朝誕生の際にも四夜の儀を沙汰している。また東国政権成立の翌1181年(養和1)元日に常胤が椀飯(おうばん)を献じたが,これは幕府年頭椀飯の初例となった。頼朝死後の99年(正治1)に梶原景時弾劾の連署に参加,翌年1月に椀飯を務めたが,1201年3月に84歳で逝去。千葉市大日寺に五輪塔がある。男子が6人あり,胤正は千葉介として家を継ぎ,師秀は相馬,胤盛は武石,胤信は大須賀,胤通は国分,胤頼は東(とう)の家をおこし,それぞれに発展する。
執筆者:福田 豊彦
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(野口実)
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鎌倉幕府草創期の武将。元永(げんえい)元年5月24日生まれ。父は良文(よしぶみ)流平氏下総権介(しもうさごんのすけ)常重(つねしげ)、母は常陸(ひたち)の豪族平政(たいらのまさもと)の娘。下総国千葉に住し、下総権介、千葉荘検非違所(しょうけびいしょ)、相馬御厨下司職(そうまみくりやげししき)のほか、立花郷(東庄(とうのしょう))などを継承。保元(ほうげん)の乱に源義朝(みなもとのよしとも)に属して参戦。1180年(治承4)9月、石橋山で敗れた源頼朝(よりとも)の房総での再起を援(たす)けて以後、源平合戦、奥州合戦などに出陣、鎌倉幕府の成立に貢献し、下総守護職はじめ、肥前、薩摩(さつま)、美濃(みの)、陸奥(むつ)などに多くの所領を得て、千葉氏発展の基礎を固めた。
素朴で誠実な人物で、つねに御家人(ごけにん)の筆頭として頼朝に重んじられ、毎年年頭の埦飯(おうばん)(将軍に奉る祝膳(しゅくぜん))などを勤めた。頼朝の死後、1199年(正治1)に梶原景時(かじわらのかげとき)弾劾の署名に加わり、翌年正月の埦飯を勤めたが、建仁(けんにん)元年3月24日、82歳で死去。千葉市大日寺(だいにちじ)に五輪塔がある。妻は武蔵(むさし)の豪族秩父(ちちぶ)重弘(しげひろ)の娘。男子6人あり、嫡子胤正(たねまさ)は千葉介として本宗家を継ぎ、師常(もろつね)は相馬(そうま)、胤盛(たねもり)は武石(たけいし)、胤信(たねのぶ)は大須賀(おおすが)、胤通(たねみち)は国分(こくぶ)、胤頼(たねより)は東(とう)氏の祖となり、それぞれに発展する。
[福田豊彦]
『福田豊彦著『千葉常胤』(1973・吉川弘文館)』
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1118.5.24~1201.3.24
平安末~鎌倉初期の武将。桓武平氏良文流の千葉常重の子。下総国千葉荘に住み,千葉介・下総権介と称する。1135年(保延元)同国相馬御厨(みくりや)を相続,その支配をめぐり国守藤原親通や源義朝・平常澄と対立。その後,義朝に従い保元の乱にも参加するが,義朝の死後,佐竹氏に相馬御厨を奪われる。80年(治承4)石橋山の敗戦後,房総にのがれた源頼朝を迎え,国内の敵対勢力を制圧し,鎌倉入府を進言した。同年頼朝の佐竹討伐により相馬御厨の支配を回復。84年(元暦元)源範頼に従って平家追討のため西海に下り,89年(文治5)東海道大将軍として奥州合戦に出陣。のち下総国守護。頼朝に厚く信頼された幕府創業以来の功臣。
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…旧国名。現在の千葉県の一部で,房総半島の北部を占める。
【古代】
東海道に属する大国(《延喜式》)。古くは〈ふさ(総)〉といい,7世紀後半の令制国の建置にともなって,上総国と下総国が成立した。〈ふさ〉の地域は,《国造本紀》によれば,成務朝に須恵(すえ),馬来田(うまくた),上海上(かみつうなかみ),伊甚(いしみ),武社(むさ),菊麻(くくま),阿波の国造が,応神朝に印波,下海上(しもつうなかみ)の国造が定まったと伝える。…
…常重の寄進状によると伊勢神宮へ寄進するに際して,荒木田延明を口入神主とし,供祭物として田畠地利上分と土産のサケを奉納し,加地子職ならびに下司職は子孫の相伝とする旨を記している。常重の子が鎌倉幕府創設の功臣千葉常胤であるが,彼が地主職を伝領したのは35年(保延1)2月であった。翌年7月国司藤原親通は伊勢神宮領であることを認めず,公田と称し官物未進の罪で常重を捕らえた。…
※「千葉常胤」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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