朝日日本歴史人物事典 「興良親王」の解説
興良親王
南朝の皇族で,後醍醐天皇の皇子護良親王の子。母は大納言東宮大夫師兼の娘とも北畠親房の妹ともいうが定かではない。大塔若宮,赤松宮,常陸親王宮とも称される。祖父の後醍醐天皇の猶子となり親王宣下。南朝から征夷大将軍に任じられ,暦応4/興国2(1341)年常陸国(茨城県)小田城に着き,すでに入城していた北畠親房に迎え入れられた。関,大宝両城陥落後は駿河国(静岡県)の豪族狩野貞長を頼り,各地の武士に檄を飛ばした。延文5/正平15(1360)年配下の赤松氏範と共に足利義詮に通じ,大和(奈良県)賀名生の行宮を焼いたため,南朝の討伐を受け,その後消息を断った。一説には信濃国(長野県)大河原で没したともいう。<参考文献>菅政友『南山皇胤譜』
(小森正明)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報