芳生野村(読み)よしうのむら

日本歴史地名大系 「芳生野村」の解説

芳生野村
よしうのむら

[現在地名]東津野村芳生野

四万十しまんと川の支流北川きたがわ川の上流に位置する、南北に長い村。東に不入いらず(一三三六メートル)、北に五段城ごだんじよう(一四五六メートル)天狗の森てんぐのもり(一四八五メートル)高峰を望む。「土佐州郡志」には「東限舟戸村通舟戸久礼・須崎、西限越知面、南限北川村、北限予州松山、東西一里、南北四里余」とある。不入山東北の矢筈やはず峠を越すと別枝べつし(現仁淀村)、村内古味こみ伊賀いかが坂からは越知面おちおも村・四万川しまがわ(現檮原町)に通じる。天正一六年(一五八八)検地の際には「吉生野」と記され(津野吉生野地検帳)、芳生野と記すようになったのは元禄一三年(一七〇〇)からという(皆山集)鎮守の熊野社に建武五年(一三三八)の棟札があるので、鎌倉時代から開拓が進められていたと考えられる。

名主層に長山氏(永山氏)がいた。長山氏系図によると享禄年中(一五二八―三二)禁裏守護を勤めていた長山信安・信貞兄弟が一条氏を頼って芳生野村うしろ山に城を築き、麓に土居を構えた。氏神として故郷の信濃より諏訪大明神を勧請、六十余尊をも祀り、北川川対岸の奈路なろ願成がんじよう寺を建立して菩提寺としたと伝える。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報