北川村(読み)きたがわむら

日本歴史地名大系 「北川村」の解説

北川村
きたがわむら

[現在地名]東津野村北川

芳生野よしうの村の西南にあり、四万十しまんと川の上流、北川川に沿って開けた村。北川川は芳生野村に発し、中平なかひら(現檮原町)檮原ゆすはら川に合流、幡多はた田野々たのの(現大正町)仁井田にいだ川と合して四万十川となり、なか(現中村市)で土佐湾に注ぐ。村名は天文(一五三二―五五)頃に当地を開拓したという北川源兵衛の名によると伝える。天正一六年(一五八八)の津野北川村地検帳に中世の名として上北川かみきたがわ名・下北川名がみえる。ほかに野越のごえ桜木さくらぎ・ワテ・下分しもぶん中間なかま遅越おそごえ西にし大古味おおこみ・中地の諸名がみえ、野越・桜木・ワテ・遅越・大古味は現在も地名として残る。当時の地積は二九町一反余、ヤシキ一〇五で、津野氏の直轄地である「公領」と津野氏の家臣二二人の給地からなり、在地の給人は村田喜左衛門ら一一人。


北川村
きたがわむら

[現在地名]北川村柏木かしわぎ

奈半利なはり川が東南方から張出すからすもりやその北の御崎おみさき山の山塊などによって大きく蛇行する川縁に集落がある。烏ヶ森北側、奈半利川南岸山麓に雛段のように並ぶのが柏木、御崎山先端対岸にあるのが崎山さきやまの集落である。寛治六年(一〇九二)八月六日の奥書のある妙楽寺文書に「北川北南西東山堺ノ事」とあり、北川郷の四至を記すが、この文書の年号には疑問も残る。

烏ヶ森に城を築いた北川氏は、その菩提寺松林しようりん寺が建久元年(一一九〇)開基と伝えることから、その頃来住したとする説もあるが、古記録を焼失したため不詳。「参考土佐軍記」は北川氏旧記にみえるとして、北川氏は室町時代に幡多はたなか(現中村市)の一条氏に属し、北川郷・加茂かも村・野友のとも村や奈半利村(現奈半利町)などを領していたと記す。


北川村
きたがわむら

[現在地名]小松町北川

現小松町の北東部に位置する。東は新屋敷しんやしき村に、南は南川みなみがわ村・妙口みようぐち村に、西は吉田よしだ(現東予市)・妙口村に、北は吉田村石田いしだ(現東予市)に接する。村の西北端を中山なかやま川が流れ、その右岸の村域約七町四方の平地の農村。

「小松邑誌」に「北川村 吉田郷 古名川無分村之事、南川村ノ条下ニ見エタリ、剣山黒川時代ニハ河無千軒トテ繁昌ノ地ナリト言伝」とあり、古名を川無かわなし村と称したとされ、また河無村とも記された。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の周布郡の項に「高百六拾五石三升 畠方 北川村 日損所」と、畠方の村とある。元禄一三年(一七〇〇)の領分附伊予国村浦記には同石高で「一柳兵部少輔知行 北川村 右は河無北南村と申候」と村名が異記され、寛文四年(一六六四)の「寛文印知集」では南川村と併せて河無北南かわなしきたみなみ村一村とし、天保郷帳では「古者北川村南川村弐ケ村 川無北南村」とある。


北川村
きたがわむら

[現在地名]木頭村北川

折宇おりう村の西、那賀川最上流両岸の山間部に位置する。北は岩倉いわぐら(現木沢村)美馬みま祖谷西山いやにしやま(現東祖谷山村)、西は土佐国別府べふ(現高知県物部村)海部かいふ郡木頭村の枝村で木頭上山きとうかみやま村に含まれる。寛永五年(一六二八)木頭上山村検地帳(木頭村誌)には北川村が書上げられ、高四五石余、田二町四反余・畑四町七反余・伐畑九町三反余、茶園三六〇坪、漆六四本、かじ一千二七五株。正保国絵図では「木頭之内北川村」と「木頭之内平村」がみえる。たいらは通称名として現存する。寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳にも木頭村の項に枝村として北川村・平村がみえる。


北川村
きたがわむら

面積:一九六・八九平方キロ

安芸郡の東北部に位置し、西は安田やすだ町・馬路うまじ村、北は馬路村と徳島県海部かいふ宍喰ししくい町、東は東洋とうよう町、南は室戸市・奈半利なはり町および田野たの町に接する。村域は奈半利川とその支流域を占めるが、北に亀谷かめだに(一〇八二・七メートル)郷谷ごうだに(九四三・八メートル)、西にかね竜森りゆうもり(一一二五・七メートル)高善森こうぜんもり(一〇二八・九メートル)、南東に野根のね(九八三・四メートル)などの高山があり、全面積の九一・九パーセントが山林で、耕地は少ない。


北川村
きたがわむら

[現在地名]飯能市北川

高山たかやま村の西に位置し、南と西は南川みなみかわ村、北は椚平くぬぎだいら(現都幾川村)で、同村との境にぶな峠がある。江戸時代には秩父郡高麗こま領に属した(風土記稿)。中世には吾那あがな郷に属し、当地の阿弥陀堂に残る台座の墨書銘に文亀三年(一五〇三)五月六日の年紀とともに「武州秩父郡吾那郷之内北河」とある。慶長四年(一五九九)の上吾野御縄の上惣郷高辻(浅海家文書)には「北川分」として三一貫三六文の記載がある。


北川村
きたがわむら

[現在地名]大豊町北川

穴内あなない川の支流久寿軒くすのき川の上流域で、杖立つえだて峠の南麓にある山村。「土佐州郡志」は「庵谷西南、東西一里余南北四十町」と記す。杖立峠越の往還が通る。天正一六年(一五八八)の豊永地検帳には「雨坪名北川村」とみえ、二筆に「茶有」、小字に「大道」の記載がみられる。

元禄地払帳では楠木くすのき村に含まれる。延享二年(一七四五)の豊永郷差出控(大家家蔵)によれば総地高二六七石余、うち本田高二四石余、新田高二四三石余。


北川村
きたがわむら

[現在地名]井波町北川

井波町の東に位置。杉谷すぎたに峠への道が通る。元和五年(一六一九)の家高新帳に村名がみえ、つほの組に属し、役家数一〇。正保郷帳では高一六九石余、田方七町五反余・畑方三町七反余、東井波村(のち当村に合併)の高二一四石余、田方九町四反余・畑方四町八反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高四〇五石・免五ツ一歩、小物成は山役八三匁・鮎川役一匁(三箇国高物成帳)。文政八年(一八二五)石黒組、天保一〇年(一八三九)以降山見組に属した。文化七年(一八一〇)の礪波郡村々諸商売品調理書上帳(井波町立図書館蔵)によれば絹機屋一七・蚕種商売一〇・古手商三・小間物請売二・米批売四、油振売・紺屋・古道具屋・てん屋・風炉屋各一がある。


北川村
きたのかわむら

[現在地名]臼杵市稲田いなだ 北ノ川

三重野みよの村の西に位置し、熊崎くまさき川右岸の山間部に立地する。南は田野口たのくち村。慶長二年(一五九七)臼杵庄検地帳写(渡辺家文書)に「小ノ川村」とあるのは当村の誤記、高八一石余、うち田方六九石余・畑方一二石余、村位は下。同一一年の惣御高頭御帳では井ノ村組に属し同高、稲葉通孝領であった。また村役人に半介・久内・六郎五郎を記す。寛永一一年(一六三四)の郷村高付帳(臼杵藩政史料)には北河村とあり井村組に所属、のち藤河内組に属した(万用集)


北川村
きたがわむら

[現在地名]吾川村北川・下北川しもきたがわ

中津なかつ川の支流で、南流する北川川に沿い、集落は川沿いと山間に散在する。かわ村の枝村。天正一八年(一五九〇)の菜川地検帳に北川村として六一筆が記される。屋敷一三筆のうち一筆は二反三二代四歩の名本屋敷。半分以上の三五筆が切畑とある。江戸時代の本田高は三一・〇八五石(元禄郷帳)。「土佐州郡志」では当村域は上北川村と下北川村の二村に分れ、戸数は各々一九と一二。


北川村
きたのかわむら

[現在地名]熊野川町きたかわ

滝本たきもと村の西方、大倉畑おおくらばた(七七四・三メートル)西南に位置する山村。小口こぐち川の北流(現和田川)の水源にあたる。慶長検地高目録に「北野川村」とあり、村高四石余、小物成五・八九六石。


北川村
きたごむら

[現在地名]門前町北川きたがわ

千代せんだい村の南西、阿岸あぎし川河口北岸の日本海に臨む平地と丘陵に立地。集落北の山麓のきつね塚は戦国時代上杉謙信が能登侵攻の際戦場になった地と伝える。正保郷帳では高七二石余、田方三町・畑方一町八反余。承応三年(一六五四)の村御印では同高、免五ツ五歩(能登奥両郡収納帳)


北川村
きたがわむら

[現在地名]下部町北川

市之瀬いちのせ村の北東、常葉ときわ川上流(古関川)域の山間に立地し、集落は同川の右岸段丘上にある。慶長古高帳に北川とみえ高二八石余、幕府領。宝暦六年(一七五六)版三郡村高帳では高七九石余。文化(一八〇四―一八)初年の家数一〇四・人数四七一、馬八。


北川村
きたがわむら

[現在地名]広見町北川

奈良なら川上流域の村。東は奈良村、北は牛之川うしのかわ村に接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の宇和郡の項に「北川村 茅山有」と村名がみえる。宇和島藩領。

太閤検地の石高は一二五石一斗二升五合で、耕地面積の比率は田九〇パーセント、畑一〇パーセント。寛文検地では石高が二〇パーセント増加し、田七二パーセント、畑二八パーセントとなっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「北川村」の意味・わかりやすい解説

北川〔村〕
きたがわ

高知県東部,奈半利川中流域の村。馬路村の魚梁瀬 (やなせ) 国有林に隣接して,スギ,ヒノキが豊富。第2次世界大戦後,奈半利川の平鍋,久木,魚梁瀬に電源開発のダムが建設された。中心集落の柏木は中岡慎太郎の出身地で邸宅跡がある。土佐浜街道 (国道 55号線) と結ぶ国道 493号線が通じる。面積 196.73km2。人口 1146(2020)。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android