茅ヶ崎村(読み)ちがさきむら

日本歴史地名大系 「茅ヶ崎村」の解説

茅ヶ崎村
ちがさきむら

[現在地名]茅ヶ崎市茅ヶ崎・茅ヶ崎一―三丁目・本村ほんそん一―四丁目・松林しようりん二丁目・若松わかまつ町・もと町・さいわい町・新栄しんえい町・十間坂じゆつけんざか一―三丁目・共恵ともえ一―二丁目・南湖なんご一―七丁目・中海岸なかかいがん一―四丁目・東海岸北ひがしかいがんきた一―五丁目・東海岸南ひがしかいがんみなみ一―六丁目・柳島海岸やなぎしまかいがん

南は相模湾に臨み、東は小和田こわだ村、西は柳島村に接し、北西せんノ川が流れ、矢畑やばた村・下町屋しもまちや村に対する。北を東西に東海道が通り、西端南湖に立場があった。

文明二年(一四七〇)二月一一日の熊野御師の相模国檀那注文(県史三)に「ちかさき さこの四郎」「ちかさき 五郎二郎」がみえる。また伊勢御師久保倉藤三の「御道者日記」(氏経卿引付)永正一五年(一五一八)一二月二五日には檀那「ちかさき(中略)ひろき殿」の存在が知られる。翌年四月二八日の宗瑞(伊勢長氏)箱根領注文(県史三)に「二百くわん文ほんねんく、但当納九十二貫五十文 ちかさき」とあり、宗瑞から菊寿丸に譲られた。小田原衆所領役帳に幻庵「百廿三貫七拾六文 東郡茅ケ崎」とある。天正一八年(一五九〇)四月日の豊臣秀吉禁制(同書)は「相模之国茅崎郷両浜二ケ所」に出されている。

天正一九年に旗本丸毛・興津領の二給、寛永一〇―一一年(一六三三―三四)頃旗本丸毛・岡部・馬場領と幕府直轄領(寛文年間旗本酒井領)の四給、宝暦一二年(一七六二)全村幕府直轄領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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