柳島村(読み)やなぎしまむら

日本歴史地名大系 「柳島村」の解説

柳島村
やなぎしまむら

[現在地名]茅ヶ崎市柳島・柳島一―二丁目・柳島海岸やなぎしまかいがん浜見平はまみだいら

南は相模湾に臨み、東は茅ヶ崎村、北東は松尾まつお村、西は中島なかじま村と大住おおすみ須賀すか(現平塚市)に接し、その西を相模川が流れ、河口に柳島湊がある。文永八年(一二七一)五月七日の道智(二階堂行氏)置文案(県史一)に「懐嶋与柳嶋堺」とあり、懐島ふところじま郷に隣接した地で、境界は「任当知行之例、可致其沙汰也」と決められていた。

近世は天正一九年(一五九一)以来旗本戸田領。浦浜付の村で、漁船は寛文七年(一六六七)に網船四(元禄四年「須賀村・柳島村争論」茅ヶ崎市史一)、文政七年(一八二四)には漁船四(地引・五郎引船)で永四〇〇文を運上した(「村明細帳」県史八)。隣村と漁場・湊をめぐる争論が度々起こっている。慶安二年(一六四九)四月には茅ヶ崎村南湖なんご分と漁場の境界を争い、漁業権を主張した南湖の主張が退けられ、「りうたう石」で村境とし、当村地先の浦は両村の入会と確定した(「浜争論裁許状」茅ヶ崎市史一)


柳島村
やなぎしまむら

[現在地名]墨田区太平たいへい二―三丁目・横川よこかわ三―五丁目・業平なりひら五丁目・錦糸きんし一―三丁目、江東区亀戸かめいど二―三丁目など

押上おしあげ村の東、北十間きたじつけん川の南岸にあり、東・南は亀戸村(現江東区)。中央を南に十間川(横十間川)が流れる。田園簿に柳島村とみえ、田五三二石余・畑四四石余、幕府領。以後幕末まで幕府領(旧高旧領取調帳など)。「風土記稿」によれば、正保(一六四四―四八)以降に村内の耕地が武家地・寺社地とされ減少。


柳島村
やなぎじまむら

[現在地名]阿南市柳島町

横見よこみ村の西に位置し、北を那賀なか川が東流、南をおか川が南東流する。正保国絵図によると、土佐街道が那賀川対岸の古庄ふるしよう(現羽ノ浦町)から同川を越え、当村と中原なかばら村との境付近を通っている。那賀川は正保四年(一六四七)の海陸道度帳にはなが川とみえ、長川柳島之瀬は広さ五、六〇間、深さ三、四尺であった。柳島之瀬は阿波・淡路海陸帳(国立史料館蔵)には「水気在之節は舟ニ而渡、但洪水之時は舟も不通」と記される。那賀川の渡場は難所であったらしく、「鉦打坂は駕籠でも越すが越すに越されぬ那賀の川」と歌われた。鉦打かねうち坂は下福井しもふくい村にある。


柳島村
やなぎしまむら

[現在地名]小山町柳島

中島なかじま村の北にあり、北は不老ふろう山から世附よづく峠・湯船ゆぶね山へと連なる相駿国境の稜線を境に相模国足柄上あしがらかみ郡世附村(現神奈川県山北町)。この稜線から南に延びる支稜がそれぞれ東の生土いきど村、西の湯船村との境界を形成し、さらにこの稜線を水源とする野沢のざわ(柳島川)が村の中央を南流する。同川と並行して走る道の両側に家々が並ぶ。中世には西方湯船村境附野つけの山とその山裾に湯船城があったといわれ、付近には遠茂白えもじろ殿屋敷とのやしきなどの地名が残る(以上「小山町史」)


柳島村
やなぎしまむら

[現在地名]富士市柳島

鮫島さめじま村の北西、中丸なかまる村の北に位置する。蒲原かんばら宿(現蒲原町)から五貫島ごかんじま村を経て鈴川すずかわ村へ至る中世の東海道が東西に通る。「相州兵乱記」巻四によれば、天文二三年(一五五四)二月に駿河国の富士川以東に侵攻した北条氏康に対し、今川氏の援軍として出兵した武田晴信の軍が、三月三日富士川の端「賀島ノ柳島」にある地下侍加藤下野の屋敷を陣屋とし合戦に及んだという。


柳島村
やなじまむら

[現在地名]八女市柳島

忠見ただみ村の南にあり、西部で矢部やべ川と星野ほしの川が合流する。矢部川沿いに豊後別路が通り、村の西端近くに小字茶屋ちややがある。矢部川に高橋たかはし渡が置かれていた(久留米藩領古図)。文禄四年(一五九五)一二月の上妻郡内知行方目録写(筑紫家文書)に「やなしま村」とみえ、高七八石余。本高は八二石余(元禄国絵図)。宝暦一揆では茂平次が刎首、仁左衛門が郡追放に処された(「御書出之類」藩法集)。「在方諸覚書」では古高一六〇石・役高三七五石余。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高三八五石、文化四年(一八〇七)の畝付帳では本田六町六反余・開田九反余・畑田一三町三反余・畑一二町七反余・居屋敷四反余。


柳島村
やなじまむら

[現在地名]久々野町柳島

久須母くすも村の北、南流する飛騨川左岸にある。慶長一〇年(一六〇五)飛騨国郷帳に村名がみえる(→久須母村。元禄検地反歩帳では益田ました郡の阿多野あだの郷に載り、高一一〇石余、田一町五反余・畑三町六反余。「飛騨国中案内」によれば免は七割一分八厘、家数二一のすべてが百姓。天明八年(一七八八)の田七〇石余・畑六八石余、反別田七町八反余・畑一三町六反余、家数一〇。


柳島村
やなぎしまむら

[現在地名]千代田町大字柳島字柳島・りゆう

筑後川の北西部で、東は現三養基みやき郡三根町に隣接する。

修学院文書中の僧成賢申状案に「肥前国柳嶋村(神埼庄)地頭職事」とあり、正和年間(一三一二―一七)のものとされている。さらに

<資料は省略されています>

と記された文書(修学院文書)もある。


柳島村
やなぎしまむら

[現在地名]草加市柳島町

彦右衛門ひこえもん新田の北にあり、西は新里につさと村、北は新堀にいぼり(現川口市)。村名は古くは泥沼の地で柳樹が繁茂していたことにちなむと伝える(「地誌材料稿」染谷家文書)。足立郡谷古田やこだ領に属した(風土記稿)。田園簿では田一四一石余・畑一九石余、ほかに野銭永一一九文。幕府領。以後の領主変遷新里村と同じ。元禄八年(一六九五)検地が施行された(風土記稿)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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