日本歴史地名大系 「菅股城跡」の解説 菅股城跡すがまたじようあと 茨城県:北茨城市大塚村菅股城跡[現在地名]北茨城市磯原町大塚大北(おおきた)川の支流木皿(きさら)川はさらに西明寺(さいみようじ)川と峰岸(みねぎし)川とを分岐するが、この二河川に挟まれ、東に張出した低丘陵上に構築された平山城。菅俣城とも記される。城跡の最高所は二重平(にじゆうだいら)とよばれる本丸跡で、四囲を土塁が巡り、南に腰曲輪がある。南より西北に山が巡り、東の方から北へ自然の谷が回り、西は山続きに堀切がある。「松岡地理志」は永承年中(一〇四六―五三)大塚民部大輔藤原規常の居城というが伝承の域を出ない。大塚(おおつか)郷の地頭大塚氏の名が初めて史料にみえるのは、元弘三年(一三三三)大塚五郎次郎員成が新田義貞の鎌倉攻めに参戦した際の軍忠状(大塚文書)である。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報