近世、鹿児島(薩摩(さつま))藩の地域行政制度。中世末、戦国島津(しまづ)氏の、領国内の各領主の本城が統治していた地域を基本とし、藩政期に行われた家臣団の所替えを通じて確定した地域行政単位。その名の起源は、守護島津家の本城を内城とし、周辺の支城を外城とよんだことによる。島津家の城下鹿児島や、在番(代官)が置かれ藩の直轄領だった屋久島(やくしま)、吐噶喇(とから)列島、また藩の本領ではなかった奄美(あまみ)諸島や、九州大名期の領域は外城にならなかった。成立当初は100か所程度だったが、その後改編され、1744年(延享1)創設の今和泉(いまいずみ)が113番目の外城となり、以降固定された。地域呼称は地名のあとに「外城」をつけて表された。1784年(天明4)、「郷(ごう)」と改称されたが、その後も外城は地域行政制度を示すものとして用いられた。各郷は数村から十数村で構成され、その中核となる村が麓(ふもと)(中世の地域本城周辺の家臣団居住地がその起源)であり、麓の村には郷士(ごうし)が住み、在方(ざいかた)の村にも百姓ばかりでなく若干の郷士が住んだ。各郷には野町、浦、浦町、門前などの町場(まちば)や漁村などがあった。麓は地頭仮屋(じとうかりや)(私領では領主館)を中心に道筋がつくられ、衆中(しゅうじゅう)である郷士の屋敷が整然とつくられた。その屋敷はおのおの、石垣、生け垣、門、目隠しを備え、防衛機能をもつ。こうした屋敷からなる麓も軍事機能を果たすよう設計されていた。屋敷のなかには造園に優れ、状態がよく、麓の性格をよく表すものとして伝統的建造物群保存地区に指定されたものがある。
藩政初期には、中世に確立した地頭が郷士を動員するという地頭衆中制をもとにした外城の軍事機能が重視された。関や番所を管轄した藩境の外城は藩領防衛の主体となり、藩主の信頼が厚い藩士が配された。また外城には、藩任命の任期制地頭が長となる地頭領(92か所)と、一所持(いっしょもち)(有力家臣)の世襲する私領(21か所)があり、地頭仮屋(領主館)を中心に外城(郷)行政が執行された。時代とともに外城の行政機能が重視され、名称が郷に変わったのもこうした理由による。地域行政制度は噯(あつかい)(郷士年寄)、組頭、横目(よこめ)の「所三役(ところさんやく)」と書役(かきやく)、浦役、別当(べっとう)、牧司、櫨楮見廻(はぜこうぞみまわり)、普請見廻(ふしんみまわり)、郡見廻(こおりみまわり)、相談役、触役(ふれやく)、行司など多数の役があり、これらすべてを郷士が世襲した。外城制は、鹿児島藩の統治の柱となり、在方(百姓)の長である庄屋役と野町などの長も郷士が担当するなど、郷士が村に居住する制度であったため、百姓一揆(いっき)は少なかった。
[三木 靖]
『鈴木公著『鹿児島県における麓、野町、浦町の地理学的研究』(1967・私家版)』▽『原口虎雄「薩摩藩外城制度の成立と元和の一国一城令」(『法制史研究』36号所収・1986・法制史学会)』▽『『鹿児島県史料 薩摩藩法令史料集一、四』(2004・鹿児島県)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…近世城郭では天守を備えた中心の郭を本丸,その外側に隣接して城主の館邸の設けられた郭を二の丸,さらに外側の家臣屋敷などの並ぶ郭を三の丸と呼ぶのが普通で,その他の諸郭に西の丸などの方角,あるいは人名を冠した呼称が用いられる。中世城郭では本丸に相当する主郭を本城・実城(みじよう)・根城(ねじろ)・一の城などと呼び,副次的な郭を外城・二の城,あるいは誰某屋敷などと呼んだ。また主郭に対する位置から腰郭・袖郭・出郭,形態から帯郭・千畳敷,機能から捨郭・隠郭・水の手郭・武者溜(だまり)・横矢などの呼称がある。…
…薩摩藩の行政制度。薩摩藩は藩主居城の鶴丸(鹿児島)城のほかに,領内を113の区画に割って,これを外城(普通には郷という)と呼んでいた。4人に1人は武士という過大人口の武士を扶持するために屯田兵制度をとったのであり,1615年(元和1)の一国一城令があるから,外城といっても城郭があるわけではなく,旧城跡の山麓かまたは城跡と無関係の平地に麓集落をつくっていた。…
※「外城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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