西明寺(読み)サイミョウジ

デジタル大辞泉 「西明寺」の意味・読み・例文・類語

さいみょう‐じ〔サイミヤウ‐〕【西明寺】

京都市右京区にある真言宗大覚寺派の準別格本山。山号は槙尾山。開創は天長9年(832)、開山は智泉。建治年間(1275~1278)に自性上人が再興。現在の諸堂は元禄12年(1699)に徳川綱吉の生母桂昌院が寄進したものという。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「西明寺」の意味・読み・例文・類語

さいみょう‐じサイミャウ‥【西明寺】

  1. [ 一 ] 栃木県芳賀郡益子町にある新義真言宗豊山派の寺。山号独鈷山。行基の開山と伝えられる。のち北条時頼が再建。
  2. [ 二 ] 滋賀県犬上郡甲良町にある天台宗の寺。山号は龍王山。承和元年(八三四)三修が開創。仁明天皇勅願所鎌倉時代造立の本堂、三重塔は国宝。池寺。池寺本坊。
  3. [ 三 ] 京都市右京区梅ケ畑槇尾町にある高野山真言宗の寺。山号槇尾山。天長九年(八三二)空海の弟子智泉が開創。現在の本堂は、元祿一二年(一六九九)徳川綱吉の母の桂昌院が寄進したもの。もみじの名所。
  4. [ 四 ] 中国、陝西省の西安(昔の長安)にある寺。六五八年、唐の高宗の勅願により、玄奘(げんじょう)が開基。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

日本歴史地名大系 「西明寺」の解説

西明寺
さいみようじ

[現在地名]日野町西明寺

竜王りゆうおう山西麓にある。大慈山と号し、臨済宗永源寺派。本尊は国指定重要文化財の木造十一面観音立像(平安時代後期の作)。寺伝によれば、天喜元年(一〇五三)天台僧照源が入山修行一七年に及び、一堂を建て西明寺と号し、大安楽寺別院としたのが草創といい、延久元年(一〇六九)明賢(真言宗紀伊金剛峯寺の僧か)が供養導師となり、入仏式を行い、以後天台真言兼宗となったと伝える。

〈近江・若狭・越前寺院神社大事典〉

〔藤原氏との結び付き〕

当地は日野ひの牧に含まれていた。同牧は藤原道長が京都法成ほうじよう(現京都市上京区)を建立するや同寺領となり、当寺と藤原氏との関係も深まり、関白忠通(法性寺殿)は当寺を一門の祈祷寺として額字を与えた。なお後白河法皇のとき、天台座主尊覚の奏上により勅願所となったともいうが、年紀が合わない(文永一〇年三月日「関白家政所下文」寺蔵)


西明寺
さいみようじ

[現在地名]山香町内河野 辻小野

辻小野つじおの(二六〇メートル)の頂上にあり、辻小野寺ともいった。現在は無住。戦国末期以降の成立と思われる六郷二十八山本寺目録(太宰管内志)に六郷山の本山分末寺として「辻小野西明寺」がみえる。他の六郷山諸寺院と同じく、当初は信仰上の霊場、修験者の山中抖における行場などであったものが、のちに寺基が整えられて天台系の寺院となったのであろう。安貞二年(一二二八)五月には、六郷山が関東祈祷所になるのに先立って一山の将軍家祈祷のための諸勤行・諸堂役祭が注進されているが、その六郷山諸勤行并諸堂役祭等目録写(長安寺文書)には「辻小野寺」とあり、本尊は千手観音で他に六所権現・三王(山王)も祀られていた。


西明寺
さいみようじ

[現在地名]右京区梅ヶ畑槇尾町

高尾たかお(高雄)神護じんご寺と栂尾とがのお高山こうざん寺の中間にあり、槇尾まきのお山と号する。真言宗大覚寺派。平等心王びようどうしんおう院ともいう。本尊釈迦如来。天長年間(八二四―八三四)空海の弟子(甥)智泉が神護寺の別院として草創したと伝える(京羽二重)。高山寺の明恵は元久元年(一二〇四)の秋紀州から上洛して当寺を訪れ、「移住槇尾」したという(明恵上人行状)


西明寺
さいみようじ

[現在地名]甲良町池寺

鈴鹿山脈に連なる湖東三山のなかの北側に位置し、一般にいけ寺ともよばれる。龍応山と号し、天台宗。本尊薬師如来。開基は伊吹山を開いた僧三修である。寺伝によれば、平安時代初期に三修が湖のほとりを歩いていると、紫雲が現れ光がさしてきたので、光の源の池に向かって祈念したところ薬師如来が浮び上り、それを傍らの立木に刻んだことに始まるという。また光を放った池が池寺の地名由来となり、薬師如来の光明が西方を明るくしたとして、承和元年(八三四)仁明天皇から西明寺の勅額を下賜されたといわれる。中世にはほかの二山(百済寺・金剛輪寺)と同様に繁栄したが、織田信長の配下丹羽長秀によって元亀二年(一五七一)攻撃される。


西明寺
さいみようじ

[現在地名]益子町益子

高館たかだて山の南西側山腹にある。独鈷山普門院と号し、真言宗豊山派、本尊は十一面観音。坂東三十三観音の第二〇番札所。益子氏が高館山に城を築き西明寺城と称したことにより、同氏の庇護を受けた。独鈷山西明寺記録(当寺蔵)によれば、奈良時代に聖武天皇の母藤原宮子が熊野権現から十一面観音の絵像を授かり、のち木像として彫写し行基に命じて豊前国西光さいこう院に安置したが、瑞夢により当寺を創建して移したという。詔を受けた紀有麻呂が天平九年(七三七)に工を始め、同一一年堂が落成、行基によって供養が行われた。


西明寺
さいみようじ

[現在地名]加茂町大野

大野おおの山の東麓にある。華頂山と号し、真言宗五智教団。もと三町余り東方の地にあったが、元禄年中(一六八八―一七〇四)木津きづ川の氾濫にあい、享保三年(一七一八)現在地に移転したという。寛政六年(一七九四)に記された西明寺縁起(相楽郡誌)によれば、大宝元年(七〇一)行基が創建、華頂山薬師院西明寺と号した。承和元年(八三四)空海が当寺に留錫し、以後真言宗となる。その後治承年間(一一七七―八一)兵火で衰退したのを応永(一三九四―一四二八)の頃行賢が再興し、日光・月光の両菩薩と十二神将像を新たに造立したという。


西明寺
さいみようじ

[現在地名]豊川市八幡町

大宝山と号し、曹洞宗。寺伝では長徳元年(九九五)開創、大江定基を開基とするという。最明寺入道時頼再開基の伝承もあり、本尊阿弥陀如来は多田満仲の念持仏ともいう。初め天台宗で鎌倉時代に臨済宗に改めたようで、のち延徳年中(一四八九―九二)水野駿河守が緒川おがわ(現知多郡東浦町)乾坤けんこん院より大素を招請して曹洞宗に改めた。「平幡村誌」に、永禄七年(一五六四)徳川家康によって最明寺としてきたのを西明寺と書改めたと記す。朱印寺領二〇石。

境内にエルビン・ベルツの墓とかげらふ塚がある。ドイツ人ベルツは「ベルツの日記」でも知られるわが国医学界の恩人。


西明寺
さいめいじ

[現在地名]今治市神宮

嬉越うれしごえにある。禅定山と号し、臨済宗東福寺派。本尊は善導自作と伝える阿弥陀像。宝永三年(一七〇六)松山藩主定直の命により一時松山大林寺に安置した(天明寺社根方帳)。創立年代は不明、もとは野間のま神社の別当寺として神宮しんぐう寺と称した。近隣の小院薬師寺・医徳寺を併せ貞和元年(一三四五)浄土宗から臨済宗に転じ、元和年間(一六一五―二四)に西明寺と改めたと伝えている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「西明寺」の意味・わかりやすい解説

西明寺(滋賀県)
さいみょうじ

滋賀県犬上郡甲良(こうら)町池寺にある天台宗の寺。竜応山(りゅうおうざん)と号し、西に大きな池があるので池寺(いけでら)ともよばれる。金剛輪寺(こんごうりんじ)、百済寺(ひゃくさいじ)と並ぶ湖東三山の一つ。834年(承和1)仁明(にんみょう)天皇の勅願により、法相(ほっそう)宗の明詮(みょうせん)(787―868)の弟子、三修(さんしゅ)の創建と伝える。室町時代に僧兵を抱え、多くの堂塔をもったが、織田信長の攻撃を受けて大半を焼失、本堂、三重塔、二天門は残った。徳川家康が寺領300石を寄せ、再興を図った。延宝(えんぽう)年間(1673~81)友閑(ゆうかん)が諸堂を建て、さらに明治以後再建された。鎌倉時代造立の本堂および三重塔は国宝。本堂外陣(げじん)に佐和山城を描く障壁画がある。1407年(応永14)建立の二天門、嘉元(かげん)2年(1304)の刻銘をもつ宝塔、絹本着色十二天像、薬師如来(やくしにょらい)立像、多聞天(たもんてん)・広目天立像、釈迦(しゃか)如来立像、不動明王および二童子像、錦旛(きんぱん)5流は国の重要文化財。庭園は江戸時代の造園で、浄土を表現した池泉観賞式の名園。

[田村晃祐]

『『古寺巡礼 近江6 湖東三山』(1980・淡交社)』



西明寺(京都市)
さいみょうじ

京都市右京区梅ヶ畑槇尾(まきのお)町にある真言(しんごん)宗大覚寺派の準別格本山。槇尾山と号する。西山槇尾平等心王院(びょうどうしんのういん)ともいう。本尊は釈迦如来(しゃかにょらい)。空海の十大弟子の一人智泉(ちせん)が神護寺(じんごじ)の別院として創建した。高山寺の明恵(みょうえ)も一時止住。その後荒廃したが、建治(けんじ)年中(1275~78)に和泉(いずみ)国(大阪府)槇尾山の自性上人(しょうにん)が再興した。1290年(正応3)後宇多(ごうだ)法皇は新たに堂宇を建立し、愛染明王(あいぜんみょうおう)を安置して平等心王院と称したが、その後衰えて一時は神護寺に合併された。1602年(慶長7)明忍(みょうにん)律師が再建して戒律の道場に改めた。1699年(元禄12)に5代将軍徳川綱吉(つなよし)の生母桂昌院(けいしょういん)が堂宇を寄進したのが現存の本堂、庫裡(くり)、経蔵、八幡宮(はちまんぐう)などの諸堂であるというが、異説もある。寺宝に木造釈迦如来立像、木像千手観世音(せんじゅかんぜおん)立像(ともに国の重要文化財)、草書(そうしょ)心経などがある。

[祖父江章子]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「西明寺」の意味・わかりやすい解説

西明寺 (さいみょうじ)

滋賀県犬上郡甲良町にある天台宗の寺。山号は竜王山。池寺とも呼ばれ,湖東三山の一つ。834年(承和1)仁明天皇の勅願により,三修という僧が創建したと伝える。1571年(元亀2)織田信長の兵火にあい,本堂,三重塔,二天門を除く諸堂を焼失したが,徳川家康が再興して寺領を寄進した。本尊の薬師如来(重要文化財)を安置する7間四方の本堂(国宝)は鎌倉時代の建築とされ,同じく鎌倉時代建立の三重塔(国宝)は高さ11間5尺,内部の壁画が美しく,また八脚門の二天門は室町時代の造建にかかり,重要文化財に指定されている。
執筆者:


西明寺 (さいみょうじ)

京都市右京区にある真言宗大覚寺派の寺。山号は槙尾山(まきのおさん)。寺伝には神護寺別院として平安初期に開創されたと伝え,中世末には衰微して神護寺に合併されたが,1602年(慶長7)明忍律師が再興し,現存の本堂以下の堂宇は99年(元禄12)に将軍徳川綱吉の生母桂昌院が寄進したといわれる。寺地は清滝川の清流に臨んで紅葉の名所として,高雄(尾)神護寺や栂尾高山寺とともに洛北三尾さんび)の名で知られている。本尊は鎌倉期作の木造釈迦如来立像(重要文化財)。
執筆者:


西明寺 (さいみょうじ)
Xī míng sì

中国,唐の国都長安(陝西省西安市)街西の延康坊にあった高宗の勅建寺。玄奘(げんじよう)の指導の下でインド祇園精舎の制に模して造立された広壮な寺院であった。658年(顕慶3)に完成するや,道宣を上座にすえて度僧させた。寺内に牡丹の銘木が多かったことでも有名で,〈西明寺牡丹〉といえば,唐一代を通じて最も人口に膾炙(かいしや)した。日本の空海,円載なども入唐してこの寺に宿した。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「西明寺」の意味・わかりやすい解説

西明寺【さいみょうじ】

滋賀県犬上郡甲良町にある天台宗の寺。湖東三山の一つ。本尊薬師如来。仁明天皇の勅願により834年創立,大伽藍(がらん)であったと伝えるが,鎌倉時代和様建築の代表作といわれる本堂,三重塔,二天門を残すのみである。これらのほか不動明王と二童子像,清凉寺式釈迦如来立像などを蔵しており,国宝・重要文化財に指定されている。
→関連項目甲良[町]

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「西明寺」の意味・わかりやすい解説

西明寺
さいみょうじ

滋賀県甲良町にある天台宗の寺。承和1 (834) 年,仁明天皇の勅願により三修上人が創建したといわれる。金剛輪寺,百済寺と並び湖東三山の1つに数えられる名刹であるが,元亀2 (1571) 年,織田信長の兵火によって伽藍の多くを焼失した。鎌倉時代に建てられた本堂と三重塔は戦火を免れ,ともに国宝に指定されている。

西明寺
さいみょうじ
Xi-ming-si

中国,唐代に長安の延康坊にあった寺。唐の高宗の勅願によって顕慶3 (658) 年に開創された。インドの祇園精舎を模したと伝えられ,壮麗をきわめた。玄奘三蔵を監主として高徳の学僧 50人を擁した。後代,武宗の廃仏令 (845) によって破却された。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

デジタル大辞泉プラス 「西明寺」の解説

西明寺〔栃木県〕

栃木県芳賀郡益子町にある真言宗豊山派の寺院。正式名称は「獨鈷山普門院西明寺」。本尊は十一面観音菩薩。三重塔、楼門、本堂内厨子が国の重要文化財に指定されている。

西明寺(さいみょうじ)〔滋賀県〕

滋賀県犬上郡甲良町にある寺院。天台宗。山号は竜応山、本尊は薬師如来。834年、仁明天皇の勅願により創建と伝わる。庭園は国の名勝、本堂と三重塔は国宝に指定。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

事典 日本の地域遺産 「西明寺」の解説

西明寺

(滋賀県犬上郡甲良町池寺26)
近江水の宝」指定の地域遺産。

出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報

事典・日本の観光資源 「西明寺」の解説

西明寺

(栃木県芳賀郡益子町)
とちぎの景勝100選」指定の観光名所。

西明寺

(滋賀県犬上郡甲良町)
湖国百選 社/寺編」指定の観光名所。

西明寺(第20番)

(栃木県芳賀郡益子町)
板東三十三箇所」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報