大塚村
おおつかむら
[現在地名]東伯町逢束
徳万村の東に位置し、東端で加勢蛇川が海に注ぐ。中央を伯耆街道が東西に通り、街道に沿って集落を形成。古くは海岸付近を方見と称し(「伯耆之巻」など)、また「和名抄」所載の方見郷の郷域は当地から南の加勢蛇川下流一帯に比定される。元弘三年(一三三三)隠岐を脱出した後醍醐天皇の伯耆での最初の寄港地とされ、現在も海岸に返り岩と称される岩などが残る。「家久君上京日記」天正三年(一五七五)六月一九日条に、同日夜「伯耆乃内大つか」に舟を着けたとみえ、同一五、六年頃の吉川広家領地付立(吉川家文書)には「参百貫 大塚」とあるが、領地付立にみえる大塚は記載されている他の地名から推して、会見郡の同地名をさすとも考えられる。江戸時代には伯耆街道の宿場であり、また湊や藩倉を有するなど八橋郡中では政治・経済上重きをなす村であった。
藩政期の拝領高は五七六石余、本免は四ツ九分。藪役銀七匁・漁運上銀一三匁を課されていた(藩史)。幕末の六郡郷村生高竈付によれば生高六七七石余、竈数一八二。文久二年(一八六二)の八橋郡村々諸事書上帳(峰地家文書)では家数一七三・人数七八四で、和布を産した。元治二年(一八六五)の八橋郡村々余業取調帳(河本家文書)では家数一八一で、うち余業八七(漁業二六・肴売棒九・廻船持七・鍛冶屋四・草履草鞋茶屋店四など)。
大塚村
おおつかむら
[現在地名]蒲生町大塚
田井村の東にある。集落の北東方は栩原山とよばれるなだらかな原野、南東方は高山とよばれる低丘陵地が広がる。北辺を佐久良川が西流し、御代参街道が北西―南東に走る。下麻生山部神社の応安二年(一三六九)八月日の勧進断片に「百文をうつかのとふし女」「一百文ををつかのをと為郎」「一斗とう内大つか」などとある。文明五年(一四七三)保内の塩荷駄に関銭が課せられ「於大塚押取」という事態が生じたが、守護代伊庭貞隆は守護の奉書を根拠に課税に応じないように保内商売人中に命じている(同年三月一九日「伊庭貞隆下知状」今堀日吉神社文書)。
字城屋敷に大塚城跡がある。中世、当地に拠り一帯に勢力を有した六角氏被官大塚氏の居城で、遺構は南方の堀や土塁の一部を除き大半は消滅したが、水晶田と通称される地からは水晶工房跡が発掘された。文明元年一〇月一四日の六角政勝充行状(望月文書)によれば「大塚衆分百石」などを除く麻生庄が望月弥次郎に与えられている。また明応八年(一四九九)九月七日の六角氏奉行人奉書(永源寺文書)に大塚平佐衛門の名がみえるのをはじめ、中世の諸史料に同氏の名が散見し、現近江八幡市長命寺の結解によれば天文年間(一五三二―五五)には大塚八郎右衛門が六角氏の舟奉行を勤めている。
大塚村
おおつかむら
[現在地名]宮崎市大塚町・大坪東一―三丁目・大坪西一―二丁目・大塚台東・大塚台西・桜ヶ丘町・小松台北町・小松台東・小松台西・江南一―四丁目・大坪町など
太田村の北西に位置する。宮崎郡に属する。東の大淀川対岸は下北方村。上野町への高松渡があり、渡船二艘があった(日向地誌)。中世は大墓別符とよばれた。天正年間(一五七三―九二)に通用した日向国五郡分帳に大塚三〇町、天正一六年八月四日の日向国知行方目録にも大塚三〇町とあり、高橋元種領となっている。領主の変遷は寛保二年(一七四二)まで上別府村と同じ。同年から村高の一部が幕府領となるが(延享三年「延岡藩領知目録写」牧野家文書)、延享四年(一七四七)以降再び延岡藩領となる(同年「延岡藩領郷村高帳」・寛延四年「延岡藩領知目録写」内藤家文書など)。延岡藩太田組四ヵ村の一つ(「宮崎役所万覚」同文書)。寛永一一年(一六三四)の指出(国乗遺聞)では高八九〇石余。
大塚村
おおつかむら
[現在地名]川西町西大塚・大塚・東大塚
犬川が最上川に合流する付近に位置し、北西は今泉村(現長井市)、北東最上川対岸は梨郷村(現南陽市)、西は下小松村、南は黒川村。大永三年(一五二三)一二月一五日の伊達稙宗安堵状写(伊達家文書)に「大塚与□□衛門所より買地、下長井之庄大塚之郷内、とうほう在家之内、田畠并安藤屋敷」とある。同七年四月二二日・同年九月五日の大塚信濃守宛の二通の伊達稙宗安堵状案(同文書)によれば、大塚美濃より購入した美濃在家など、大塚新右衛門より購入した大耕屋在家などが安堵されている。天文七年(一五三八)の段銭古帳では「十壱貫三十文 大つか」と「五貫百文 大塚あらい」がみえる。同二二年の晴宗公采地下賜録では、「大塚の内、いぬ川在家・大塚あらひに五百文の所」が大塚信濃に、「大つかの内、大つか二郎ゑもんのふん、をかの在け、ねもと与四郎ふん」が塩森掃部左衛門に、「大つかあらいの内、あさかきん七郎よりかいち」「おハり在家」が湯目雅楽允に、「大つかあらひの内」として「かうや」が鎌田与惣右衛門に下賜されている。天正一二年(一五八四)の下長井段銭帳では、大塚の本段銭一〇貫三〇文の三分の一を平掃部・ほしや蔵人主・新藤玄蕃が、大塚あらいの本段銭五貫一〇〇文の三分の一から鎌田与三衛門分四〇〇文と「大塚くたん分」二二五文を引いて安部彦兵衛・酒井藤七が上納している。
大塚村
おおつかむら
[現在地名]高槻市大塚町一―五丁目・竹の内町・西大樋町・南大樋町・北大樋町・番田一―二丁目・登町・堤町
野中・中小路・辻子三村の南にある。淀川右岸に位置し、檜尾川右岸最下流域を占める。西の村境は芥川。南西にある枝郷番田村、東にある同大塚町と領域が錯綜する。村内に大塚と称する封土がある。清和天皇が譲位ののち廻国したとき、当地字松ヶ崎の小松原に駐し、淀川の光景をながめ、傍らの松木に冠を掛けたまま帰ってしまった。人々はその王冠を埋め、院の死後社殿を設けて王塚と称したのを地名起源とする伝承がある。また往古百済国の敬福が来朝して当地で亡くなったので、埋葬して封土をつくり王塚と称したともいう。「摂津志」は大塚について大塚村「恵慶法師所謂冠大塚即是未詳誰氏、今祓除以為神幸之地」と記す。「政所賦名引付」文明一四年(一四八二)五月一六日分に「一 布野州山形三郎右衛門尉満宗」として「祖父入道常祐対落合藤左衛門供用六十貫文事、家門領以摂州大塚庄年貢内連々返弁、既及百六十貫文了」とある。また同一五年九月一七日付の蓮如消息(広島別院旧蔵文書)には「出口たちて、からさきの渡をして、かふり大つかへゆきて」とあり、この頃すでに蓮如の駐錫を迎える惣村の形成を思わせる。
大塚村
おおつかむら
[現在地名]安佐南区沼田町大塚
長束村の西に位置し、村境に青木山(四五七・六メートル)、西に向山(六六五・九メートル)があり、その間を大塚川が北流し、伴村へ入る。流域には広開谷が開け、南は半坂(現佐伯郡五日市町)を過ぎれば石内村(現五日市町)で、その東寄りの畑峠を越えれば佐伯郡己斐村(現西区)および西山本村に至る。古代の山陽道は大塚川沿いに伴村から当村に入り、石内村へ抜けたと考えられている。地名について「安佐郡誌」は「大塚は佐西・佐東二郡の境に当り、境塚のありしより此称あり」とする。
嘉禎四年(一二三八)四月一七日付の伊都岐島社廻廊員数注進状案(新出厳島文書)に、同社の「自大宮御方南脇至于御供屋三十間」の「未被立分」に「大墓」とみえ、次いで同五年正月日付の伊都岐島社造廻廊注進状案(同文書)にも同様にみえる。仁治三年(一二四二)正月二六日付の伊都岐島社政所下文写(野坂文書)では、百姓守末の自由張行を停止し、年来百姓名主代官職である大墓名主景貞の所勘に従わせている。一方鎌倉中期と推定される三月日付の安芸国衙領注進状(田所文書)には、杣村二五丁五反のうちの応輸田のなかに「大墓村一丁三反大 官米五斗代」とみえ、厳島社領と国衙領が併存していたことが推定される。
大塚村
おおつかむら
[現在地名]安来市大塚町
清瀬村の伯太川対岸(左岸)に位置し、西は鳥木村・吉田村。文政一二年(一八二九)の村絵図(大塚町公民館蔵)によると、馬籠・後馬籠・カジヤ替地・馬隠し・古市・神納・八脇谷・恋の奥・わらび城・大明神・市頭など計四三の地名がある。正保国絵図に村名がみえ、慶安四年(一六五一)の検地帳によると、上々田七町六反余・分米一二二石余(一石六斗代)、上田一七町七反余・二六五石余(一石五斗代)、中田二七町余・三五一石余(一石三斗代)、下田二一町五反余・二三七石余(一石一斗代)、下々田一八町二反余・一四六石余(八斗代)、新田二町八反余・一四石余(五斗代)、上畑三町一反余・二八石余(九斗代)、中畑二町九反余・二〇石余(七斗代)、下畑四町七反余・二三石余(五斗代)、下々畑五町四反余・一六石余(三斗代)、田畑計一一一町二反余・一千二二五石余、屋敷数四二(うち御役目屋敷二八)。
大塚村
おおつかむら
[現在地名]小川町大塚
小川村の西、小川盆地の中央部に位置し、西は飯田村・増尾村、村の南を槻川、北を同川支流兜川が東流する。玉川領に属した(風土記稿)。村の北方に後深草院の皇子梅皇子のものと伝える塚(梅大塚)があり、村名はこれに由来するという(風土記稿)。村の南西部を川越秩父道が通る。田園簿では田高二三石余・畑高一七五石余、幕府領。ほかに地内大梅寺領高五石があった。元禄郷帳では高三六〇石余、国立史料館本元禄郷帳では旗本金田領。以降、同領のまま幕末に至ったと思われる(「風土記稿」「郡村誌」など)。検地は慶長二年(一五九七)・寛永六年(一六二九)・寛文八年(一六六八)に行われたという(風土記稿)。
川越秩父道に沿った小川村の町場とは家並続きであったが、同村との間では市立てをめぐってたびたび争論となった。小川村では争論のたびに当村の市を新市としてその禁止を求めているが、承応二年(一六五三)の争論では当村が徳川家康の「御入国以来近年迄ハ小川・大塚町つゝきにて御座候故、両町一道二市相立」てていたと主張、その後、市は一時中絶し、やがて小川村が再開したと述べている。
大塚村
おおつかむら
[現在地名]山科区大塚〈大岩・北溝町・高岩・丹田・檀ノ浦・中溝・西浦町・野溝町・南溝町・向畑町・元屋敷町・森町・葭ヶ谷〉
東は山地を境に滋賀県大津市、北は音羽川を境に音羽・小山、南は大宅、西は東野の各村に接し、村内西部を南北に大津街道(奈良街道)が通る。古墳がいくつか存し、御塚が大塚に転じたともいうが(京都府地誌)確証はない。
中世には山科七郷の一で、「山科家礼記」応仁二年(一四六八)六月一五日条に「一郷 西山三宝院 大塚聖護院」とあり、西山とともに一郷をなし本所は聖護院(現左京区)であった。
大塚村
おおつかむら
[現在地名]大朝町大塚
大朝村の北西に位置し、北東は寒曳山、西は畳山などがそびえる。石見国境の三坂峠などから流れる大塚川に沿って集落が開ける。正和二年(一三一三)四月二〇日付の関東御教書(吉川家文書)は疑問視される史料であるが、大朝本庄のうちに「大塚、妻鹿原」とみえ、妻鹿原(現女鹿原)は後の大塚村内に含まれる。また康永二年(一三四三)正月二六日付の吉川経国譲状(同文書)には「おハさのしやう大つかのむら」とある。
元和五年(一六一九)の安芸国知行帳では高三三三・三九八石とみえるが、「国郡志下調書出帳」によれば、その後新開高を加え三三六・六四五石と増高し、享保一四年(一七二九)の地詰により三三七・二九六石に決定した。同書出帳によると、広島藩蔵入地で、宝暦一二年(一七六二)より定免七・〇五に決まったが、それ以前の上り詰は七・四五、下り詰は二。
大塚村
おおつかむら
[現在地名]稲沢市大塚町
東は高御堂村・奥田村に接し、村の西を三宅川と大江川が流れる。本郷は大江川の東側にあり、中尾・市場・東村・門前に分れている(天保村絵図)。
弘安五年(一二八二)浄金剛院領としての千世氏荘坪付注進状案(醍醐寺文書)に「一、光富畠伍段 中嶋郡南条三宅郷大墓」とあるのが初見。応長二年(一三一二)尼尊如が大塚性海寺に私領を寄進した寄進状(性海寺文書)に「一所 大塚村大垣内」とみえる。国人で中島郡内を本拠地とする在庁官人であった中島承念(正介)が元応二年(一三二〇)譲渡した所領注文(妙興寺文書)に「一所 大塚・塚原・荒野」とみえる。
大塚村
おおつかむら
[現在地名]北茨城市磯原町大塚
木皿川の右岸に位置し、東部にわずかな平地が開け、西部一帯は山。北は内野村。「佐竹系譜」(秋田県立図書館蔵)に、
<資料は省略されています>
とみえる大塚郷が当村にあたるといわれる。文禄四年(一五九五)の岩城領検地目録(静嘉堂文庫蔵)に「八百拾六石七斗四升四合 竜子山分大塚村」とある。「大塚誌」に享保一八年(一七三三)の家数二〇二・人数七六七、馬四一・牛二五、寛延元年(一七四八)の家数一九五・人数七二五、馬三八・牛四、明和五年(一七六八)の人数六〇八、馬五三・牛二三、安永三年(一七七四)の家数一八四・人数五七一、馬七〇・牛二二とある。
大塚村
おおつかむら
[現在地名]鳥取市大塚
野坂村の西、野坂川左岸に位置する。箕上山の東麓にあたり、野坂川対岸は上段村。支村大永寺があり、同村名は大永寺が所在したことによると伝え、もとは本村であったという(因幡志)。元和四年(一六一八)池田幸隆(光政)は、当村のうち二〇〇石を神屋九郎作に宛行っている(因幡志)。拝領高は四八二石余、本免六ツ。文政一二年(一八二九)の高草郡中構下札目録帳(奥田家文書)では朱高五二五石余・生高五七四石余、物成二九七石余、山札銀一〇匁五分・藪役銀一匁五分・川役銀三五匁が課されていた。
大塚村
おおつかむら
[現在地名]養老町三神町・泉町・滝見町
金屋村の南、島田村の北西に位置する。西の五日市村の北あたりで分流した牧田川が東方の直江村あたりで合流するが、村域はこの分流内の中島にあたる。当地に鎮座する多岐神社は式内社とされるが、大塚の地名は同社境内の円墳に由来し、大墳とも記された。また同社には多数の懸仏が蔵され、その一つ正中二年(一三二五)九月一三日の裏面墨書銘に「大塚大社」とある。同じく永享一〇年(一四三八)二月一一日墨書銘には大塚郷とあり、天文一〇年(一五四一)四月二三日銘には「多藝庄大塚高山」とあることから、当郷は多芸庄内であったことがわかる。
大塚村
おおつかむら
[現在地名]富山市大塚・大塚南・大塚東・大塚北・大塚西
中沖村の南西に位置し、新鍛治川を挟み西は本江村、北上すれば利波新村を経て打出村・四方町。婦負郡に属し、寛永一六年(一六三九)以降富山藩領。牛ヶ首用水によって開かれ、正保郷帳では高一千四五八石余、田方八七町一反・畑方一〇町一反余、新田高五〇石余。寛永一〇年の牛ヶ首用水管理約定書(牛ヶ首用水土地改良区蔵)に肝煎源兵衛の名がみえ、同年の在々水割帳(同改良区蔵)では中沖村とともに取入樋を利用する権利を有した。
大塚村
おおつかむら
[現在地名]三珠町大塚
上野村の東に位置し、笛吹川左岸の氾濫原の水田地帯と曾根丘陵西端の押出川流域畑地帯、御坂山地の三地域からなる。北は笛吹川を隔てて大田和村(現田富町)、東は浅利村(現豊富村)。村名は曾根丘陵上に多くの塚が存在することにちなむ。永禄四年(一五六一)の番帳に「四十四番 大塚の禰き」がみえ、当地の熊野神社の禰宜が府中八幡宮へ廻番として参勤を命じられている。なお府中八幡宮への勤番は江戸時代にも受継がれている(慶長一三年番帳)。慶長古高帳に大塚村とみえ、高八五四石余、幕府領。ほかに熊野社領一石余。寛永元年(一六二四)の四郡村高帳でも同高で幕府領。
大塚村
おおつかむら
[現在地名]中津市大塚
中津城下の北東の町外れにあり、西は堀川町、南は蠣瀬村、東は蛎瀬川。「中津譜誌」は古くは多塚という塩浜であったという。弥生時代以来海岸が墓地となってきたことは十分考えられることで、西国東郡真玉町の大塚古墳が海岸砂丘上に築造されている例からしても、当地に古墳があったことが推定される。元禄豊前国高帳に村名がみえ、高四四石余。当地では塩が生産されており、宝暦四年(一七五四)五月塩問屋桜町油屋安右衛門の訴えにより、町場での塩卸売や酒屋での販売を禁止した。同年一二月蠣瀬村・大塚村より塩小売に出る者が町場の店先や辻々で卸売することを再度禁止した(惣町大帳)。
大塚村
おおつかむら
[現在地名]宇佐市大塚
中原村の西、宇佐平野の南東端にある。西は四日市村、南は山本村。集落は中原村の集落に続いて展開。中世には辛島郷の内で、地内の幸子垣・原口などの字名が史料に散見する。建武三年(一三三六)三月日の吉松公遠軍忠状(広崎文書)で「豊前国大塚一分地頭」の吉松公遠は連々の宿直や京都三条法勝寺での合戦の働きなどたびたびの軍忠を上申している。応永七年(一四〇〇)一〇月二四日の沙弥玄千譲状(同文書)で玄千(宇佐公吉)は「大塚村内」の「当時居屋敷」「一反廿代畠地カウシカキ」などを嫡子吉松九郎公興に譲っている。
大塚村
おおづかむら
[現在地名]三輪町大塚
現三輪町域の東端、小石原川の右岸にあたる。北は弥永村、北東は下淵村(現甘木市)。貞治三年(一三六四)二月日付大友氏時注進状案(大友文書/南北朝遺文(九州編)四)では氏時当知行の所領のなかに筑前国「大墓村」があり、当村に該当すると考えられる。小早川時代の指出前之帳では大塚村の田二九町三反余(分米三二二石余)・畠四町七反余(分大豆三四石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高三七五石余、うち大豆二七石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には高三八二石余・反別二三町七反余、家数二九・人数一二二(田圃志)。
大塚村
おおつかむら
[現在地名]瀬高町大草
堤村の北にあり、古僧都山麓の西に位置する。北は下妻郡南長田村。村名は村域内にある蜘蛛塚(大塚)古墳(すでに原型を失っているが、前方後円墳)に由来すると伝える。年未詳四月一七日付の大友義長知行預ケ状(田尻家文書/佐賀県史料集成七)によると、田尻中務少輔は大友義長より「大塚」一二町を預け置かれた。永正九年(一五一二)四月二五日の田尻治種知行坪付(同上)では山門郡内の大塚一二町などの知行地が大友氏老臣によって確認されている。
大塚村
おおつかむら
[現在地名]八王子市大塚・鹿島・松が谷
大栗川下流域の両岸にわたって立地。北は百草丘陵に、南は乞田川との境の丘陵にかかる。西は中野村。中世は京都東福寺領船木田庄に含まれた。貞治二年(一三六三)一二月一九日の船木田庄領家方年貢算用状(東福寺文書)によれば、同年に「始知行分」として「三貫文 大塚郷」とあり、この年から東福寺への年貢納入が開始されている。至徳二年(一三八五)一二月二五日の船木田庄年貢算用状(同文書)では新庄分内として「参貫弐百文 大塚分」と記されている。
大塚村
おおつかむら
[現在地名]神林村大塚
石川左岸にあり、西は高御堂村、東は川を隔てて殿岡村、南東は小出村、南西は今宿村に接する。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図には「大国但馬分大つか村 下」とみえ、「本納合弐拾参石七斗□升 縄ノ高合六拾石八斗二升三合八夕 家弐間」とある。近世は村上藩領。正保国絵図では五九石余。享保二〇年(一七三五)の村明細帳(板垣総兵衛氏蔵)によれば田一六町二反余・畑屋敷七反三畝余、家数一五・人数九七、馬一六。平林町へ一石六斗余、葛籠山村へ八斗余、福田村へ一石一斗余、宿田村へ八石余出作している。用水は殿岡村地内に堰を設けて石川から取水し、当村・殿岡村・小出村・高御堂村の四ヵ村へ引く。
大塚村
おおつかむら
[現在地名]山辺町大塚・近江
山野辺村の南、須川西岸の段丘上に位置する。集落の東方、須川の低位段丘上に古墳時代前期と平安時代の集落跡の大塚遺跡がある。下層の古式土師器は複合口縁の土師壺や脚の大きく開く土師坏など四世紀代の宮町式にあたり、平安時代の土師器・須恵器を出土した上層との間にある砂質土層は、六―七世紀の山形盆地での地形面変動と可耕地の変移を暗示している。
大塚村
おおつかむら
[現在地名]中条町大塚
南西は東河内村、北東は柴橋村に接し、村境は錯雑する。村名は南西にある円墳状の塚に由来するといわれる。建治三年(一二七七)四月二八日の高井道円(時茂)譲状案(中条町役場所蔵文書)に奥山庄内「おほつか」とみえ、道円の孫ひこ二郎よしなかへ譲られている。同譲状では当地を含む奥山庄内南条八ヵ所と出羽国と相模国内の所領が南条義基に譲られたことになる。しかし弘安元年(一二七八)五月一八日の鎌倉将軍家(惟康親王)政所下文案(出羽伊佐早文書)では道円の建治三年一一月五日付の譲状に任せて大塚ほか八ヵ所の地頭職が道円の孫茂長に安堵されている。
大塚村
おおつかむら
[現在地名]刈羽村大塚・西谷
東は赤田村、西の別山川対岸は刈羽村、南は新屋敷村、北は井岡村に接する平坦な村。大塚集落の南々西に端村土丸がある。永禄三年(一五六〇)一〇月吉日の貫屋家兼売券案(来田文書)に「大塚」「中田」とみえ、伊勢御師の檀那が所在したと思われる。中田は大塚地内に同名の小字がある。正保国絵図に高三三七石余。天和三年(一六八三)の越後中将御領覚では高六二二石五斗余のほかに高三四石三斗余の新田がある。「白川風土記」では家数五三、土丸二三。大塚川(別山川)の水を堰く大小二つの堰は、割町新田・新屋敷村と共同で利用する。長岡への道の土橋が大塚川に架かり、普請の費用は領主が出し、人夫は郡中より出すとある。
大塚村
おおつかむら
[現在地名]名和町大塚
富長村・古御堂村の西で、北は日本海に臨み、阿弥陀川の下流右岸に位置する。海岸に面する大雀の集落を伯耆街道が通る。拝領高四五二石余。給人所付帳によると和田氏の給地。藪役銀一二匁二分が課せられていた(藩史)。延享三年(一七四六)の汗入郡御通筋村々厘付帳(門脇家文書)によれば、高四九三石余、新開高五三石余。土免三ツ九歩・請免三ツ二歩二厘。
大塚村
おおつかむら
[現在地名]松阪市大塚町
北は新松ヶ島村、南は松坂西町と境し、東は久保田村、西は船江村と接する。中世は伊勢神宮領大墓御園の地。「神宮雑例集」に内宮領として飯高郡大墓御園がみえる。「神鳳鈔」にも「内宮大墓御薗一石五斗、六九十二月」とある。ただ、御鎮座伝記紙背文書(神宮文庫蔵)の建武二年(一三三五)九月二日付太政官符に引く同元年六月三日付後醍醐天皇綸旨に添えられた目録に、「石津庄桜田大夫法印貞源分 大塚庄同」とあり、大塚庄なる荘名が出現する。この綸旨ならびに目録は、鎌倉幕府滅亡をめぐる争乱の過程で闕所地となった伊勢国三二ヵ所を伊勢二所大神宮に寄進する目的で作成発給されたもので、飯高郡石津庄(現石津町)と大塚庄もその一部となっていた。
大塚村
おおづかむら
[現在地名]栃木市大塚町
惣社村の西に位置し、南は国府村、北東は近世初期に当村の内であったという癸生村。凝灰岩を用いた石室の玄室部が露出している岩家古墳があり、もとはこれを中心にほぼ南北に一六基の円墳が確認されていた(昭和一一年調査)。三ッ塚・並塚・井戸塚・岩塚・餓鬼塚・川子塚などの地名が分布する。寛喜二年(一二三〇)二月二〇日の小山朝政譲状(小山文書)に国府郡内として「大塚野」とみえ、朝政の嫡孫長村に譲られている。観応元年(一三五〇)より永徳二年(一三八二)の間のものとみられる某所領注文案(同文書)にも大塚野とある。応安元年(一三六八)九月日の島津弥三郎代田村忠長軍忠状(島津文書)によれば、大塚に陣を構えた際、忠長が上杉方として戦功をあげている。
大塚村
おおつかむら
[現在地名]熊谷市大塚
埼玉郡忍領に所属(風土記稿)。荒川の沖積扇状地末端の湧水地帯に位置し、北は上中条村、南河原村(現南河原村)、南は下川上村、西は上川上村。村名は曹洞宗龍昌寺境内にある大塚古墳(円墳)に由来するという。この円墳には荒川水系の青石(長瀞系の緑泥片岩)と利根川水系の角閃安山岩(群馬県榛名山の火山噴出物)が併用され、両水系の文化接触地帯と考えられている。
大塚村
おおつかむら
[現在地名]川越市南大塚・南台・青柳、狭山市上赤坂
今福村の北西、不老川左岸の台地上に立地。文明一二年(一四八〇)七月二七日の聖護院門跡御教書写(武州文書)にみえる京都聖護院から入東郡などの年行事職に補任された本山派修験の十玉坊は、当地所在とする説がある。「廻国雑記」には「武州大塚の十玉か所へまかりける」とみえる。「風土記稿」によれば、慶長一一年(一六〇六)藤倉大膳によって開発され成立したといい、検地は延宝三年(一六七五)・元禄七年(一六九四)に実施された。田園簿には大塚町とみえ、畑高五〇石余、川越藩領(幕末に至る)。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳で大塚村とみえ、高一八七石余、反別畑四四町四反余、ほかに開発分高二八石余(反別畑六町八反余)、武蔵野分高四二〇石余(反別畑九八町余)。
大塚村
おおづかむら
[現在地名]川島町東大塚
下八ッ林村の北東にあり、集落は自然堤防上に細長く発達する。古くは八ッ林村のうちで、大墳と記していたが、慶安(一六四八―五二)頃に同村より分村したという(郡村誌)。田園簿に村名がみえ、田高一九二石・畑高二八石、旗本板橋領。ほかに大福寺領高一石三斗・吉祥寺領高二斗四升があった。その後川越藩領となり、秋元家時代郷帳では高一三二石余、ほかに前々検地出高として高三石余がある。反別は田方一四町九反余・畑方四町四反余。以後の領主の変遷は谷中村に同じ。「風土記稿」によると家数は四六。用水は長楽用水の八林分水などを利用した。
大塚村
おおつかむら
[現在地名]中之条町大塚
赤坂村の東にあり、東は群馬郡尻高村(現高山村)。南端近くを名久田川が流れ、沼田への道が通る。赤坂・平の二村とともに下尻高とも称された(郡村誌)。村域内から筒形土偶が出土した。「寛文朱印留」に村名がみえ沼田藩領。寛文郷帳では田方七二石余・畑方二三一石余。寛文三年(一六六三)の沼田藩領新検地控では一千三七〇石余。貞享二年(一六八五)の沼田藩領再検地控では四二五石余。真田氏改易後幕府領となり、元禄一一年(一六九八)から旗本保科領。地理的にも三国街道中山宿(現高山村)に近く助郷役を負担していた(文化六年「助合村高書上」平形文書)。天明三年(一七八三)の浅間山噴火記録(片山文書)によると同年の保科氏への年貢のうち三分が御免となっている。
大塚村
おおつかむら
[現在地名]杉戸町大塚
堤根村の東に位置し、東は庄内古川が流れ、北の蓮沼村境を関宿往還が通る。田園簿に大塚新田とみえ、田高二四六石余・畑高一〇八石余で、幕府領、ほかに永二三文とある。「風土記稿」によれば、当時は旗本松下領のほか猿楽の観世新九郎の給地となっており、家数は三六とある。日光道中の往還通掃除町場は小淵村(現春日部市)地内一二四間で(宿村大概帳)、杉戸宿の助郷村であった(享保八年「杉戸町助郷帳」長瀬家文書)。幕府鷹匠頭戸田五助組の捉飼場で(文化一五年「捉飼場書上」藤塚村文書)、慶長六年(一六〇一)から寛文元年(一六六一)までは陸奥仙台伊達家の鷹場であった(貞享元年「久喜鷹場村数覚」伊達家文書)。
大塚村
だいづかむら
[現在地名]八坂村大塚
現八坂村の中央、金熊川の深い谷間に位置し、金熊谷の大村大平村は西上方にあたる。
大塚の名は、この村にかつて大きな墳墓があったことによると伝えられるが、現在元大塚村域には古墳の残存はみられない。
「信府統記」の「新田開発時節改」に「大町組大平村枝郷大塚村 慶安元子年高分ル」とあり、これを大塚の名の初見とし、金熊川谷の最大であった大平村の先称金熊村から慶安元年(一六四八)に高分れして一村をなしたことを伝えている。次いで慶安三年三月には松本藩の検地を受け、村高一〇四石四斗二升九合、役家数一六軒の村となっている(八坂村役場蔵検地帳)。
大塚村
おおつかむら
[現在地名]長野市青木島町大塚
綱島村の南。西は下氷
村、東は真島村、南は小島田村。
諏訪社下社の春秋之宮造宮之次第(諏訪大社上社文書)の長享二年(一四八八)七月の写に「春宮之役所 御瑞籬四拾三間之内 六間(追筆か)大塚之郷若宮造宮之内より」とみえる。「勝山記」によると、弘治元年(一五五五)長尾景虎は村上義清・高梨政頼らの請いにより、武田晴信を討とうとして善光寺に着陣。晴信が「三十里コナタナル大ツカニ御陣ヲ被成候」とある「大ツカ」は現在大塚館跡碑一帯と考えられている。
近世を通じて松代領。慶長七年(一六〇二)の川中島四郡検地打立之帳(小柳文書)に「九百四拾九石七斗四升八合 大塚村」とある。
大塚村
おおつかむら
[現在地名]保原町大泉
金原田村の北西に位置し、北は泉沢村、西は下保原村。西部を東根川が北流する平坦地で、集落は微高地上にある。天文七年(一五三八)の段銭古帳に伊達東根のうちとして「大つかかう」とみえ、段銭は二貫六七五文。弘治三年(一五五七)八月吉日の梁川八幡宮祭礼規式写(関根文書)に「竹内ノ明神右御へい 禰宜甚二郎 大塚十一丁 守子座ノ祭リ」とある。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高一六〇石余。近世初期の邑鑑によると免四ツ、家数一・人数三、役木として桑がある。米沢藩領時代の古高四二四石余、幕府検地による新高三七一石余(古高新高帳)。
大塚村
おおつかむら
[現在地名]深谷市大塚
小山川左岸の沖積低地に位置し、西は上手計村、南は内ヶ島村、北は下手計村。岡部領に所属(風土記稿)。地元では「おおづか」とよぶ。永禄一二年(一五六九)九月一日の北条氏邦印判状写(武州文書)によると、鉢形城(現寄居町)城主北条氏邦が吉橋大膳亮に戦功の賞として「十貫文 大塚之内」などを宛行っており、これは当地に比定される。天正一八年(一五九〇)の徳川家康関東入国後、旗本安部信勝領(のちの岡部藩領)となり幕末に至る(天明七年「岡部藩領郷村高帳」安倍家文書、改革組合取調書など)。
大塚村
おおつかむら
[現在地名]坂戸市北大塚
中里村の南西、高麗川左岸にある。西は成願寺村。入間郡入西領に属した(風土記稿)。田園簿では田四二石・畑一三九石余、旗本本郷領。以後幕末まで同領。検地は天明六年(一七八六)に行われた。南方にある持添新田は享保年中(一七一六―三六)の開発で、検地は明和九年(一七七二)に行われた。幕府領(風土記稿)。旧高旧領取調帳では新田分は二石余。化政期の家数四八(風土記稿)。明治一二年(一八七九)北大塚村と改称。
大塚村
おおつかむら
[現在地名]安濃町大塚
北谷川右岸の台地上に集落があり、野口村の東南、粟加村の西北にあたる。大塚という地名の由来について「安濃郡誌」は「安濃内親王御陵は皇塚村にあり、字を皇陵という。大塚の名は皇塚の転なるか」という。しかし安濃内親王の存在については、「五鈴遺響」以下疑問とする。文禄検地帳を転記したと思われる伊勢国中御検地高帳に「大塚村」と現れる。江戸時代を通じて津藩領。寛延(一七四八―五一)頃の戸数二八、ほかに郷士四、人口一四五、馬五、牛七。
大塚村
おおつかむら
[現在地名]出雲市大塚町・姫原町
斐伊川と神戸川に挟まれた平坦地にあり、東は高岡村、南は今市村。「雲陽誌」によれば、善哉寺の「寺内南の方に七間四方の古塚あり、是をもつて村の号を大塚と号す、来歴詳ならす」と記される。正保国絵図に村名がみえる。元禄十年出雲国郷帳では高一千二〇九石余、寛文四年(一六六四)の本田高一千二〇五石余、新田高なし。「雲陽大数録」では高八三〇石。宝暦四年(一七五四)の神門郡北方万指出帳(比布智神社文書)では東西七町一〇間・南北一三町、家数七五・人数三五二、馬五・牛九、綿打一と記す。
大塚村
おおつかむら
[現在地名]養父町大塚
養父市場村の南東、円山川の右岸に位置し、北東方に鉄屋米地村の集落を望む。ただし鉄屋米地村と当村との間には養父市場村の村地が入り込んでいる。康治二年(一一四三)八月一九日の太政官牒(安楽寿院古文書)に記される水谷神宮寺領の四至のうちに「南限大塚并石和郷高田庄境」とみえる。近世の領主の変遷は大藪村に同じ。慶長一八年(一六一三)の小出吉英所領目録(金井文書)では高八八石余。
大塚村
おおつかむら
[現在地名]倉吉市大塚
中江村の北、天神川下流の氾濫原に位置する。北は江北村(現北条町)、西は穴窪村。村域は天神川両岸にまたがり、江戸時代以来渡船場があったが(藩史)、現在は大塚橋によって結ばれる。拝領高は三九七石余、本免五ツ七分。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」では高四三〇石余、竈数五〇余。幕末の六郡郷村生高竈付では生高四三五石、竈数六四。藪役銀六匁・川役銀二匁を課されていた(藩史)。
大塚村
おおつかむら
万里小路家領吉河上庄五ヵ村の一で、近世の槙村・久次村・西山村付近に比定される。嘉吉元年(一四四一)五月一四日の吉河上庄四ヶ村代官職請文案(建内記嘉吉元年六月記紙背文書)に吉河上庄領家内四ヵ村の一として大塚とみえ、万里小路時房は稲田光増をこの四ヵ村各半分の代官職に補任している。同年六月前代官住光院受敬から吉河上庄四ヵ村の代官職避状を提出させ(「建内記」同月一七日条)、正式に同代官職は光増に預けられた(同月一七日「万里小路家御教書案」建内記嘉吉元年六月記紙背文書)。
大塚村
おおつかむら
[現在地名]蒲郡市大塚町
三谷村の東。南は海に面する。「神鳳鈔」にみえる大墓御薗の地かとする説がある。慶長六年(一六〇一)以前は吉田城主池田輝政領、引続いて吉田藩に属したが、安永三年(一七七四)田沼氏の相良藩領、天明七年(一七八七)幕府領、享和三年(一八〇三)また吉田藩領となって明治に至る。正徳六年(一七一六)の塩浜畝寄本帳(大塚区有)によると、上浜はなく中浜・下浜を主とした塩浜である。これは、海面より高所に海水を汲上げて行われる揚浜式の塩田であることによる。塩浜は、四郎右衛門浜・惣兵衛浜・甚蔵浜・平内浜・七郎左衛門浜・六郎左衛門浜などの塩浜開発者の名がみられ、八三筆で二町五反余ある。
大塚村
おおつかむら
[現在地名]七宗町神渕大塚
山間地帯、神淵川と奥田川の合流点、飛騨への道筋に位置する。東は寺洞村、南は大橋村、北は中切村。神淵十郷の一つで、大塚組とも称した。元禄郷帳では高八九石余。「濃州徇行記」では高九二石余、田畑八町七反余、家数二〇ほど。神淵一〇ヵ村の総庄屋福井伊助がいた。明治五年(一八七二)の村明細帳によると田方七三石余・畑方一八石余・山高七斗余。
大塚村
おおつかむら
[現在地名]雄物川町会塚
雄物川東岸の平坦地、北流する大宮川流域に位置する。
正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に、下一桁は不明だが三三〇石余とある。享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」には東大塚村として家数一〇軒、枝郷は下大塚村一〇軒、念仏谷地村二軒、新所村一三軒。寛政六年(一七九四)の六郡惣高村附帳では当高四八八石余、うち蔵分九九石余、給分三八八石余。
大塚村
おおつかむら
[現在地名]朝地町上尾塚 上尾塚
北泉村の南西にあり、犬飼道がほぼ東西に通る。正保郷帳に村名がみえ、田高一三八石余・畑高九一石余、大方郷に属した。旧高旧領取調帳では高二二五石余。安永七年(一七七八)には直入郡挟田組に属した(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)。
大塚村
おおつかむら
[現在地名]美浦村大塚
霞ヶ浦に面する平地にあり、東は谷中村。中世は信太庄に属し、江戸時代は天領・旗本領で、元禄郷帳の村高は九二石余。幕末は天領四五石余のほか、旗本松波氏領二三石余、飯室氏領六二石余(各村旧高簿)。漁業も行われ、元禄一六年(一七〇三)九月一六日の霞ケ浦四十八津返答口上書(舟串家文書)に「大塚村甚兵衛」とみえ、享保一一年(一七二六)一一月の霞ケ浦浦方議定書(同文書)にも村名がある。
大塚村
おおつかむら
[現在地名]足助町大塚
東は現主要地方道瀬戸―設楽線に沿う広見村、南は足助村・塩ノ沢村、西は中立村、北は栃ノ沢村に接する。集落は小起伏面上の山麓に点在。寛永一二年(一六三五)当時、酒呑村(現豊田市)に陣屋を置く旗本鈴木友之助知行地。
大塚村
おおつかむら
[現在地名]植木町正清
慈恩寺村の北、二田村の南に接し、台地の縁辺に位置する。村中央にある釈迦三尊の種子をもつ板碑に「于時享禄四天辛卯□廿三日 大願主大塚藤三衛門尉」とあり、大塚の名が一六世紀前半に存在したことが知られる。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳では田一〇町九反六畝余・畠八町九反六畝余、名請人延数三二人。同一三年の検地帳では田一四町三反六畝・畠一六町二反九畝・屋敷五反二畝、分米二九九石余、家数一二・人数三二、馬牛八、下ケ名にさか口・おきさこ・いやしきなどがある。
大塚村
おおつかむら
[現在地名]八郷町大塚
加波山の東麓に位置し、東は恋瀬川を隔てて小見村、南は狸内村。江戸時代は寛文四年(一六六四)以降牛久藩領で、元禄郷帳の村高は三五四石余、幕末は牛久藩領分五八六石余、加波山社領五石(各村旧高簿)。
大塚村
おおつかむら
[現在地名]菊池市長田
広瀬古閑村の西にあり、南は菊池川に画される。隈府町高札辻より約一里三町。慶長五年(一六〇〇)の検地帳に田六町五反二畝余・畠三町七反五畝余、分米一〇七石五斗余とある。元禄国絵図に「西寺村之内大塚村」とあり、北接する西寺村の分村と思われる。河原手永に属し、文化一一年(一八一四)頃の河原手永手鑑に高一一四石七斗、田六町九反四畝余・畑二町七反四畝余、竈数一一・人数五一、駄馬一二、氏神天満宮とある。
大塚村
おおつかむら
[現在地名]一色町大塚
矢作古川の右岸に開けた村。「神鳳鈔」に記す大墓御薗のあった地という。「三河国名所図絵」に「大束御薗 大束村 西尾より深溝道右の方に在り」と記し、「三河国二葉松」は大束村と記す。大墓が大束となり、さらに大塚に転じたと思われる。大塚神明社縁起によると、むかし横手村(現西尾市)の新田であり、寛正年間(一四六〇―六六)一六名が移住したのに始まるという。
大塚村
おおつかむら
[現在地名]広陵町大字大塚
馬見丘陵東南端の傾斜地に立地する。新山古墳の塚にちなんだ村名。慶長郷帳にみる村高四二五・〇八石。うち三〇〇石は近世を通じて当麻寺領、残る一二五・〇八石はこれまた近世を通じて三輪社領である。「大和志料」所載の元禄郷帳ですべて当麻寺領としているのは誤り。
大塚村
おおつかむら
[現在地名]下館市大塚
北は深見村、西は徳持村。文明一〇年(一四七八)水谷勝氏が下館に築城後、同氏の支配地となる。江戸初期に下館藩領となり、元和九年(一六二三)の水野谷様御代下館領村々石高并名主名前控(中村家文書)と寛永一六年(一六三九)の下館領五万石村々石高牒(田宮家文書)に村高二六一・〇〇九石とある。
大塚村
おおつかむら
[現在地名]水戸市大塚町・双葉台一―二丁目・同四丁目
水戸城下の南西に位置し、加倉井村の北東にある。地勢は平坦で村の東北部に新堂池がある。笠間道が村の中ほどを東西に貫く。中世は江戸氏・佐竹氏の支配を経て、江戸時代は宍戸藩領であった。
大塚村
おおつかむら
[現在地名]北茂安町大字東尾字大塚
東尾村の北方、低丘陵地に位置する。高付けされない村であるが、貞享四年(一六八七)改郷村帳および以降の郷村帳には村名が記載されている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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