菅野谷高政
生年:生没年不詳
江戸初期の俳人。京都の人で富小路錦小路上ルに住す。通称は孫右衛門。大坂の阿蘭陀西鶴の向こうを張って,惣本寺伴天連社高政とも称する。はじめ安原貞室系のち西山宗因門。延宝3(1675)年『誹諧絵合』を刊行して俳壇に進出。この選集には宗因の独吟百韻を収め,すでに談林への傾倒を示している。同7年に『誹諧中庸姿』を刊行し,巻頭に「目にあやし麦藁一把飛蛍」以下の独吟百韻をかかげたが,その奇矯な作風を,貞門側の『誹諧破邪顕正』によって攻撃され,これ以後貞門対談林の論争へと発展する。ところがこれによって高政は一躍有名になり,京都談林俳諧の中心人物と目され,同8年に『是天道』を,さらに同9年『ほのぼの立』を刊行して,異体・異風の俳風を誇示するが,天和2(1682)年の宗因の死を機に,俳壇から後退した。<参考文献>密田良二「菅野谷高政」(明治書院『俳句講座』2巻)
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菅野谷高政 すがのや-たかまさ
?-? 江戸時代前期の俳人。
京都の人。西山宗因(そういん)にまなび,京都談林派の中心人物となる。延宝7年(1679)「中庸姿(つねのすがた)」をあらわしたが,貞門の中島随流にその新奇な俳風を批判され,貞門と談林の間に論争をひきおこした。元禄15年(1702)以後死去。通称は孫右衛門。別号に惣本寺,伴天連社。編著に「誹諧絵合(はいかいえあわせ)」,著作に「是天道(これてんどう)」など。
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世界大百科事典(旧版)内の菅野谷高政の言及
【高政】より
…江戸前期の俳人。生没年不詳。姓は菅野谷(すがのや),通称は孫右衛門。俳諧惣本寺,伴天連社(ばてれんしや)などを名のる。江戸の人。1674‐75年(延宝2‐3)ごろ上京。江戸在住当時から中央俳書に句を投じていたが,上京後,《誹諧絵合(えあわせ)》(1675),《後集絵合》(1677)等の編著によって一躍名をはせた。79年(延宝7)刊《[俳諧中庸姿](つねのすがた)》は,その書名とは裏腹に奇矯異体の限りを尽くした作品であったため,貞門派の憎しみを買い,随流の《[誹諧破邪顕正](はじやけんしよう)》(1679),重頼の《誹諧熊坂》(1679)など論難書が出され,やがて全俳壇を巻き込む規模の抗争事件へと発展した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」