朝日日本歴史人物事典 「葛西清貞」の解説
葛西清貞
南北朝時代の武将。武蔵守。法名円蓮。宗清(清宗)の子。建武新政府に反旗をひるがえした足利尊氏の追討を命じられた北畠顕家は建武2(1335)年5万騎を率いて追走するが,この大軍の中に宗清,清貞父子が属す。進軍中の翌3年義良親王令旨をもって「無二之忠」を感謝される。延元2/建武4(1337)年顕家に従い伊達郡霊山に移り,同年顕家再度の西上にも従軍。翌3年顕家戦死後帰国していたが,台風のため義良親王下向が頓挫したあとは,常陸国に着いた北畠親房に使者を出して奥州下向と奥州の大軍を糾合しての西上を勧めた。興国1/暦応3(1340)年北畠顕信を牡鹿湊に迎え,陸奥国府を占拠する北朝方の石塔義房,義元父子に対し,南の伊達氏と呼応して,同3年にかけて北方から攻撃した(栗原郡三迫の戦)。同6年顕信の命を受けて和賀,滴石の諸氏と共に斯波郡の北党と闘ったようであるが以後不明。石巻市多福院には関連する板碑が存する。また曹洞宗の奥羽第1とされる黒石(水沢市)にある正法寺への寄進者の中にも清貞の名がみえる。<参考文献>『石巻市史』6巻
(伊藤清郎)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報