ドイツ連邦共和国,ドイツ民主共和国,オーストリア共和国,スイス連邦,リヒテンシュタイン公国の公用語であり,それぞれ6140万人,1677万人,752万人,400万人,3万人(1977)により使用されている。また,アメリカ合衆国,ベルギー王国においても,それぞれ600万人,15万人により使用される。ドイツ語はまた,ルクセンブルク大公国において書き言葉として用いられ,東欧各地においては孤立言語圏を形成している。ドイツ語は,系統的にはゲルマン語派の中の西ゲルマン語に属し,ドイツ南部・中部の高地ドイツ語と,ドイツ北部の低地ドイツ語に大きく分けられるが,その中でも,標準ドイツ語の基礎をなす高地ドイツ語は,上部ドイツ語に属するバイエルン方言・アレマン方言・南ラインフランク方言・東フランク方言,中部ドイツ語に属する中部フランク方言・ラインフランク方言・東中部ドイツ語諸方言より形成される。この上部ドイツ語と中部ドイツ語の区別は第2次子音推移(語頭,子音の後,子音重複の場合に,pがpfに,tがz[ts]に,kがch[kx]に変化する)の中で,pからpfへの変化が起こっているかどうかという基準による。例:上部ドイツ語(東フランク方言)Pfund〈ポンド〉,Apfel〈リンゴ〉--中部ドイツ語(中部フランク方言)Pund,Appel。
高地ドイツ語は,歴史的に,(1)古高ドイツ語(8~11世紀),(2)高ドイツ語(11~14世紀),(3)新高ドイツ語(14世紀~現在)の三つの時期に区分され,新高ドイツ語はさらに,初期新高ドイツ語(14~17世紀),後期新高ドイツ語(17世紀~現在)の二つの時期に区分される。
古高ドイツ語の時代はドイツ語による文献の出現とともに始まるが,厳密に言えば,当時は〈ドイツ語〉という統一概念はドイツのごく限られた一部の地域にしか広まっておらず,ドイツの地には西ゲルマン語に属する諸部族の言葉が個々に存在しているにすぎなかった。ドイツでは6世紀ころより,フランク族による諸部族の征服と統合が行われるが,8世紀中ごろ帝位についたカロリング朝のカール大帝は,最終的に征服し終えた諸部族をキリスト教の理念によって統一することを目ざした。そのために,彼は教会制度など種々の制度改革を行ったが,その一環として,聖職者がラテン語ではなく民衆の言葉で説教し教義を教えることを命じた。そこで,ラテン語で書かれたキリスト教文献の翻訳を主とした文学活動が各地の修道院を中心にして盛んになり,〈主の祈り〉〈信仰箇条〉〈受洗の誓い〉が各地でドイツ語に翻訳された。また9世紀前半には,カール大帝の文化政策の中心地であるフルダ修道院で共観福音書《タツィアーン》のドイツ語への翻訳が行われ,9世紀後半にはフルダとも密接な関係をもつオトフリートによる脚韻詩《オトフリートの福音書》のような長編の作品も成立した。このようにして,カール大帝の文化政策により,ドイツ語による文献は,それ以前のラテン語との対訳語彙集など限られたものから,質・量ともに飛躍的に充実することになった。
この時代,キリスト教に関するラテン語の文献の翻訳により,ラテン語は種々の点でドイツ語に影響を与えたが,その中でも語彙はとくに強い影響を受けた。ラテン語からの翻訳借用・意訳借用などの手段を通じて,キリスト教に関する多くのドイツ語の語彙が成立し,ドイツ語の語彙は,それ以前に比べ,より濃く徹底的にキリスト教的色彩を帯びるようになった。統語論の分野では,ラテン語の影響により,絶対分詞構文の発達,従属文を導く接続詞の細分化とその体系化などの現象が見られる。
古高ドイツ語の時代には,このように修道院を中心として各地で文学活動が盛んになるが,統一された文語というものはいまだ存在せず,諸作品は,それが書かれた修道院で用いられる方言を反映していた。
11世紀からそれ以降にかけて,西欧では封建制度が最盛期を迎え,それとともに騎士階級も台頭した。ドイツにおいては,民族・言語の共通意識が強まるとともに,〈ドイツ〉という民族・言語に関する統一概念が11世紀末以来定着し始め,また,12世紀からの封建貴族による本格的な東方植民により,ドイツの領土はエルベ川以東まで東へと拡張する。このような状況のもとで,ドイツ語による文学活動はそれまでもっぱら聖職者によって担われていたのに対し,この時代,騎士階級が文学活動の新しい担い手として登場し,ドイツ語による多くの作品を残すことになる。まず,ネーデルラント出身のフェルデケのハインリヒ(ハインリヒ・フォン・フェルデケ)をはじめとして,アウエのハルトマン(ハルトマン・フォン・アウエ),シュトラスブルクのゴットフリート(ゴットフリート・フォン・シュトラスブルク),エッシェンバハのウォルフラム(ウォルフラム・フォン・エッシェンバハ)のような宮廷叙事詩人,ワルター・フォン・デル・フォーゲルワイデのような恋愛歌詩人が現れるが,詩人たちは,各地方の間の文化的交流の中で,自己の作品ができる限り広い地域で読まれ,理解されるように,狭い地域に限られた方言的な要素を避けるようになる。その結果,12世紀後半から13世紀にかけ,ドイツ南部を中心に,超地方的で比較的均一な文学語が成立する。しかし,統一された文語の成立にはいたらず,13世紀中ごろからの騎士階級の没落とともに,文学語の均一性は再び失われた。
この時代には,騎士文化の隆盛とともに,フランス語から,宮廷・騎士文化に関する多数の語が借用されたが,それらの語の多くは今日失われている。また,動詞を派生する-ierenをはじめ,今日でも用いられる種々の接尾辞もフランス語から借用された。一方,13~14世紀にかけて,神秘主義者たちは,本来言葉で表現することが不可能な神との一体化の体験を言葉で言い表すことを試み,その目的のために新しい語や表現を創り出した。このようにして,多くの抽象名詞が成立し,これらは,今日の哲学などの術語の基礎をなしている。
高地ドイツ語が上述のような展開を示した一方,北ドイツでは中低ドイツ語がハンザ同盟の発展とともに勢力を拡大し,14~15世紀にかけては各都市間の通商語として統一され,北欧諸語にも大きな影響を与えるが,ハンザ同盟の没落とともに勢力を失い,それ以後,高地ドイツ語の力に押されることになる。
13世紀ころから,ドイツでは皇帝の力が弱まり,国家の統一は失われ,各地で台頭した領主がそれぞれの領地を治めるようになる。このようにして,広大なドイツ東部地方の植民地は,小さな領地に細分化されたドイツ西部地方に代わり,政治的・経済的に影響力を増し,ドイツ語の発展に大きな意味をもつようになった。またこの頃より,各地の都市において台頭した市民階級が,それまでの騎士文化に対し,独自の都市文化を形づくるようになる。初期新高ドイツ語の時代とは,以上のような社会的条件のもとに,ドイツ東部地方を中心とした,諸侯・都市の官庁の言葉を基礎とする,14世紀から17世紀中ごろにかけての,ドイツ文語の形成の時期であると要約することができる。
ドイツ各地の官庁では,とくに14世紀ころから,ラテン語に代わりドイツ語が法令・裁判などに関する公文書の作成に用いられる機会が急速に増すが,官庁で用いられる言葉〈官庁語〉は,各官庁ごとにさまざまであった。しかし,しだいに各官庁の間の交流による言語の均一化が起こり,官庁語は有力な官庁を中心にして地方ごとにまとまりを示すようになる。このようにして,とくに,ウィーンにおけるハプスブルク家の皇帝官庁で用いられる官庁語は大きな影響力をもち,バイエルン,オーストリアを中心にしてドイツ東南部地方に,共通ドイツ語gemeines Deutschと呼ばれる比較的均一な通用語が生まれ,のち18世紀中ごろまで存続することになる。16世紀の宗教改革の時代に入り,ドイツ語による宗教論争に関する出版物が人々の間に流布するが,1522年のM.ルターによるドイツ語訳新約聖書(《ルター訳聖書》)は,その民衆の言葉に即したわかりやすさ,語彙選択の幅の広さなどの理由により,印刷術によって,短期間のうちに前例のないほどに全ドイツに広まった。ルターは聖書翻訳の際の語形など言語の外形を,当時ウィーンの皇帝庁と並んで有力であった,自己の出身地に近いザクセン地方のマイセンの官庁語に従わせるが,マイセンの官庁が存在するドイツ東中部地方の東中部ドイツ語の特徴をもったルターのドイツ語は,ドイツ西部,北ドイツの低地ドイツ語地域にも広まり,のちの統一されたドイツ文語の基礎となった(もっとも,バイエルンを中心とするカトリック地域のドイツ東南部の通用語とルターのドイツ語との言語的競合はしばらく続くことになる)。ルターは1522年以降も数回にわたって新・旧約聖書の改訂版を出すが,ルターのドイツ語は,とくに語の形態と正書法においてはいまだ規範をもたず,確固としたものではなかった。そこで16世紀以来多くの文法家たちがドイツ語の規範化に努めるが,その中でもとくに,17世紀中ごろ,ショッテルGeorg Schottelは一連のドイツ文法に関する著作において,それ以前には見られないほどに,ドイツ文法の体系化・規範化を行い,ここにドイツ語は初めて確固とした規範をもつことになった。彼は,ルターのドイツ語の基礎となるマイセン方言の優位を認めはしたが,一方で東南部ドイツ語をも考慮に入れ,ある特定の地域・方言に限定されない抽象物としての標準ドイツ語Hochdeutschというものを主張したが,その考えはのちの時代に受け継がれることになった。
ショッテル以後も,ドイツ文語のより確かな規範化の努力は続けられるが,18世紀中ごろ出版されたJ.C.ゴットシェートの文法書《ドイツ文法の基礎づけ》(1748)は,ショッテルに取って代わるドイツ語の規範として各地で受け入れられ,ドイツ東南部およびスイスもこの規範に従うことになった。ここにドイツ文語は地域的に統一され,形式的・外面的に一応完成する。ゴットシェートなどの啓蒙主義者は,言語を論理を表現する手段とみなし,詩的な装飾を排除し,言語の形式的側面を重視したが,ドイツ語の内容的側面の充実・完成には,詩人・作家など文学者が大きく貢献した。このようにして,ドイツ語は,ゲーテ,シラーの古典派から19世紀初めのロマン派の時代にかけて,ヨーロッパにおける文化語としての地位を確立するが,とくに古典派の言語様式はドイツ文語の頂点として,のちの時代に大きな影響を及ぼした。
ドイツ語の正書法の統一には,ショッテル,ゴットシェート,また《ドイツ語正書法のための完全な指針》(1788)の著者であるアーデルングJohann Adelungらが力を尽くすが,最終的な統一は,オーストリア,スイスも参加した1901年の第2回正書法会議の結果に基づく,ドゥーデンの《正書法辞典》(1902)により達成された。その際,長い間の懸案である,ゴットシェート以来一般化された名詞の大文字書きはそのまま残されることになった。
また同じ頃,ドイツ語の発音の面においても,ジープスTheodor Siebsの北ドイツの発音に基づく《ドイツ語舞台発音》(1898)によって,統一・規範化が行われている。
ドイツの文字としては,ローマ字体のほかに,独特のドイツ文字,いわゆる〈亀の甲文字〉が知られているが,これは12世紀にドイツで形成されたゴシック字体を基礎として16世紀にでき上がった字体であり,北部ヨーロッパに広まった。ドイツでは第2次世界大戦ころまでしばしば用いられたが,戦後はローマ字体に取って代わられた。
現代ドイツ語のアルファベットは英語と同様のAからZまでの26文字のほかに,変母音(ウムラウト)Ä,Ö,Ü,そして常に小文字で用いられ無声摩擦音[s]の音価をもつ(エスツェット)の文字(ssで代用されることがある)から成る。
ドイツ語は英語と異なり表記と発音のずれの少ない言語であるが,以下の諸点は注意を必要とする。
母音では,二重母音eiは[a][アイ](なお以下カタカナ表記は便宜的なもの),ieは[iː][イー],eu,äuは[ɔY][オイ]と発音される。
子音では,b,d,gは語末でそれぞれ無声音の[p,t,k]になる。例:Tag[taːk][ターク]。chは軟口蓋摩擦音[x](母音a,o,u,auの後で),硬口蓋摩擦音[ç](それ以外)で発音される。例:Buch[buːx][ブーフ],recht[rɛçt][レヒト]。chsは[ks]と発音される。例:Fuchs[fUks][フックス]。pfは両唇破裂音[p]と唇歯音[f]を単音として同時に発音するもので,両者を切り離してはいけない。例:Apfel[apfəl][アップフェル]。quは[kv]と発音される。例:Qual[kvaːl][クヴァール]。schは英語のshと同様[ʃ]を表す。例:Schiff[ʃf][シッフ]。sp,stは語頭でそれぞれ[ʃp],[ʃt]を表す。例:Spiel[ʃpiːl][シュピール],Stein[ʃtan][シュタイン]。
また次の5個の単子音の発音は,英語と比べ,とくに注意を要する。jは硬口蓋摩擦音[j]で発音される。例:ja[jaː][ヤー]。sは語頭・語中で有声摩擦音[z]となる。例:sagen[zaːɡən][ザーゲン]。vは[f]となる。例:Volk[fɔlk][フォルク]。wは[v]と発音される。例:Wort[vɔrt][ヴォルト]。zは[ts]と発音される。例:Zahn[tsaːn][ツァーン]。
また,ドイツ語ではアクセントは第1音節に置かれるのが普通である。
(1)おもな文法範疇 動詞の時制には現在,過去,現在完了(haben(あるいはsein)の現在形+過去分詞),過去完了(haben(あるいはsein)の過去形+過去分詞),未来(werden+不定詞),未来完了(werden+完了不定詞)の6時制が存在し,法は直説法(ある事がらを事実として客観的に述べる法),接続法(ある事がらを話者の主観として述べる法),命令法(二人称に対する要求・命令を表す)の三つの法,態は能動態と受動態(werden+過去分詞)の二つの態が存在する。
名詞は,すべての名詞が男性名詞,女性名詞,中性名詞のどれか一つの性に属する。例(それぞれ定冠詞をつけて示す):der Tisch〈机-男性名詞〉,die Tür〈戸-女性名詞〉,das Haus〈家-中性名詞〉。数は単数,複数の二つの範疇が存在する。格では,一格,二格,三格,四格の四つの格が存在し,それぞれの格は文中で日本語の助詞〈~が・は(=一格)〉〈~の(=二格)〉〈~に(=三格)〉〈~を(=四格)〉とほぼ同じ文法的関係を表す。
(2)形態 ドイツ語の動詞活用の一端をうかがうために,現在形を例にとれば,現在形は語幹(=不定詞から-(e)nを取り除いた部分)に,単数一人称-e,同二人称-st,同三人称-t;複数一人称-(e)n,同二人称-t,同三人称-(e)nの人称語尾を付けてつくられる。例:lernen〈学ぶ〉 単数一人称ich lerne,同二人称du lernst,同三人称er,sie,es lernt(人称代名詞は〈彼〉〈彼女〉〈それ〉の順);複数一人称wir lernen,同二人称ihr lernt,同三人称sie lernen。また,常に大文字で書かれる敬称のSie〈あなた(方)〉は複数三人称と同じ語尾をとる。例:Sie lernen。
名詞の複数形のつくり方は英語に比べ複雑であり,おもに次の4種の語尾が存在する。(a)無語尾 例(以下,単・複の順で示す):Onkel〈おじ〉-Onkel,(b)-e 例:Tag〈日〉-Tage,(c)-er 例:Kind〈子ども〉-Kinder,(d)-(e)n 例:Frau〈女性〉-Frauen。格変化では,若干の例外を除き男性・中性名詞の二格では-(e)sの語尾が付き,複数三格では複数形にさらに-nの語尾が付く。例:Tag(一格),Tag(e)s(二格);Kinder(複数一,二,四格),Kindern(複数三格)。
冠詞では,定冠詞は男性単数一格der,同二格des,同三格dem,同四格den;女性単数一格die,同二格der,同三格der,同四格die;中性単数一格das,同二格des,同三格dem,同四格das;複数一格(男・女・中性の区別はない)die,同二格der,同三格den,同四格dieと変化する。また定冠詞の語尾とほぼ同じ語尾,すなわち男性-er,-es,-em,-en;女性-e,-er,-er,-e;中性-es,-es,-em,-es;複数-e,-er,-en,-e(定冠詞の語尾と異なるものは太字で示した)が,定冠詞類(例(代名詞):男性単数一格dies-er〈この〉,jen-er〈あの〉,solch-er〈そのような〉,welch-er〈どの〉;例(不定数詞):all-er〈すべての〉,manch-er〈かなり多くの〉,jed-er〈おのおのの〉)や不定冠詞(例:男性一格ein,同二格eines,同三格einem,同四格einen;女性一格eine,同二格einer,同三格einer,同四格eine;中性一格ein,同二格eines,同三格einem,同四格ein。ただし上記にみるように,男性一格,中性一・四格は異なる)にも現れる。
形容詞の変化は,冠詞を伴わずに名詞の前に置かれる場合(=強変化)と形容詞の前に定冠詞(類)が来る場合(=弱変化)に大きく分けられるが,強変化は,一部を除いて,上述の定冠詞とほぼ同じ語尾をとる。例:gut〈よい〉 男性単数一格guter,同二格guten,同三格gutem,同四格guten;女性単数一格gute,同二格guter,同三格guter,同四格gute;中性単数一格gutes,同二格guten,同三格gutem,同四格gutes;複数一格gute,同二格guter,同三格guten,同四格gute。また,形容詞の比較級・最上級は,英語と同様,原級にそれぞれ-er,-(e)stを付加してつくられる。例:klein〈小さい〉(原級)-kleiner(比較級)-kleinst(最上級)。
(3)語順 ドイツ語では,動詞の人称変化した形である〈定形〉は,叙述文においては常に前から2番目の位置に存在する。例:(a)Er lernt jetzt Deutsch.〈彼は今ドイツ語を学んでいる〉;(b)Jetzt lernt er Deutsch.〈今彼はドイツ語を学んでいる〉。(a)は定形正置,主語以外の成分が文頭に位置する(b)は定形倒置と呼ばれる。
従属文においては,定形は文末に位置する。例:(c)Ich wei,da er jetzt Deutsch lernt.〈私は彼が今ドイツ語を学んでいることを知っている〉。(c)の例は定形後置と呼ばれる。また疑問詞のない疑問文は,定形を文頭に,主語を2番目の位置に置く。例:Lernt er jetzt Deutsch ?〈彼は今ドイツ語を学んでいますか ?〉。
ドイツ語では,haben,sein,werdenという時称(時制)の助動詞と本動詞の組合せでつくる(a)現在完了,(b)過去完了,(c)未来,(d)未来完了の四つの複合時称,あるいは話し手の主観的態度を表す話法の助動詞の現れる文では,本動詞(過去分詞あるいは不定詞の形で現れる)は文末に置かれる。例:Er hat Deutsch gelernt.〈彼はドイツ語を学んだ〉;Er mu Deutsch lernen.〈彼はドイツ語を学ばねばならない〉。このような文の構造は〈ワク構造〉と呼ばれる。
日本における本格的なドイツ語学習は,1860年(万延1)7月,プロシア(プロイセン)東洋遠征艦隊来航の際,蕃書調所(ばんしよしらべしよ)の市川斎宮(いつき)が〈独逸(どいつ)学〉を学ぶ公命を受け,それを機にドイツ語を学び始めた時をはじめとする。1862年(文久2)には洋書調所に独逸学科が開設され,この年,日本最初のドイツ語読本である《官版独逸単語篇》が出版された。明治に入り,《孛和袖珍字書(ふわしゆうちんじしよ)》(1872)をはじめとする種々の独和(和独)辞典あるいは入門書の出版により,ドイツの文化・近代科学を受け入れるための基礎が築かれ,ドイツ文化は日本における種々の分野に大きな影響を及ぼすことになった。たとえば,法律の分野では,君主の権力の強いドイツ系の憲法にならった憲法を制定するために,明治政府は82年(明治15)伊藤博文をヨーロッパに派遣し,ドイツの憲法を調査させ,89年とくにプロイセン憲法にならった大日本帝国憲法を公布した。また,フランス法の影響はあるものの,民法・刑法など日本の主要な法律はドイツ法の影響の下にある。法律と並んで近代国家としての日本の軍隊制度においても,幕末から明治の初頭にかけては,理論を重視するフランス兵学が支配的であったのに対し,モルトケ門下のメッケルが日本に招かれ,85年から3年間,陸軍大学校で実際面を重んじるドイツ兵学を講義したことなどによって,ドイツ兵学がフランス兵学に代わって主流を占めるようになった。さらに,医学の分野においても,明治政府は1869年(明治2)官立医学校におけるドイツ医学の採用を決定し,71年8月,陸軍軍医ミュルレル,海軍軍医ホフマンが医学教師として日本に着任するが,それ以後ドイツ医学は日本において支配的となり,クランケ<Kranke〈患者〉,チフス<Typhus,オブラート<Oblateなど医学関係のドイツ語が多数日本語に取り入れられた。
このようにしてドイツ語は,ドイツの文化や学術とともに,またそれらに通じるための手段として学習され,それを学ぶことの重要性がしだいに多くの人々により説かれるようになっていった。のちの旧制高校において,かなり力を入れて行われたドイツ語学習の制度にしても,一種の〈教養〉としての外国語学習という色彩も表れているにせよ,そこには初期と同様なきわめて実用的な動機が存在していたということができるだろう。戦後の新しい学制に変わってからも,ドイツ語は大多数の大学で第2外国語などのかたちで学ばれており,日本人にとっては英語に次いで親しみのある外国語の一つとなっている。
執筆者:斎藤 治之
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
英語と同じく、インド・ヨーロッパ語族、ゲルマン語派の西ゲルマン語系に属する言語(ただし、ゲルマン語派を北ゲルマン、東ゲルマンおよび西ゲルマンの三語派に分けるこの三分説は、今日かならずしも定説ではなく、異説を唱える学者もおり、言語学をはじめとする各分野の研究が進むにつれ、訂正される可能性がある)。
ドイツ語にもっとも近い外国語はオランダ語、ついで英語である。英語になくてドイツ語にあるつづり字は、ä、ö、ü、äuという四つの母音、それに子音字ß(字母としては「エス・ツェット」と読む)である。ßはもとsとzの合字で、発音はssと同じであるほか、語頭に置かれることはなく、また、前後のつづり字のいかんによってssと交替する(たとえば、「忘れる」は、不定詞はvergessenであるのに対し、過去基本形はvergaßである)。
[濱川祥枝]
「ドイツ語」にあたるドイツ語の単語Deutschは、786年、あるラテン語の文献にtheodiscusという形で現れたのが、今日知られている最初の例であるが、これは、「民衆」を意味した当時のドイツ語dietから派生した形容詞diutiscのラテン語形であって、当時の上流階級や知識階級の公用語だったラテン語に対する「民衆の言語」の意味であった。ただし、むろん、ドイツ語という言語が統一的な言語として初めから存在したわけではけっしてなく、ゲルマン諸部族の方言が、長期にわたる複雑な同化の過程を経て、18世紀の終わりごろ、標準ドイツ語としてようやくいちおうの成立をみたのであって、ドイツが昔もいまも中央集権の国ではなく地方分権の国であることとも相まって、各種の方言はいまなお健在である。「高地ドイツ語」を意味するHochdeutschという単語は、今日では「標準ドイツ語」の意味にも用いられるが、これは、現在の標準ドイツ語が、高地ドイツ(つまりドイツ南部)の方言を基盤にして成立したことからきている。
ドイツ語の時代区分も、あらゆる時代区分の例に漏れず、さまざまの論議をよぶが、今日比較的多くの学者によって支持されているのは、Althochdeutsch(古高(ここう)ドイツ語)、Mittelhochdeutsch(中高(ちゅうこう)ドイツ語)、Frühneuhochdeutsch(初期新高(しんこう)ドイツ語)、Neuhochdeutsch(新高ドイツ語)という四つの時期の区分であり、それぞれ、ほぼ750~1050年、1050~1350年、1350~1650年、1650年~現代までのドイツ語とされる。この時代区分も大ざっぱなものであることは免れず、また、古高ドイツ語や中高ドイツ語はともに、今日われわれが理解するような意味での「標準ドイツ語」ではない。
かつて第一次子音推移によってゲルマン語がインド・ヨーロッパ語族の他の言語と区別される形態的特徴をもつに至ったのと同様、南部ドイツのドイツ語も第二次子音推移(高地ドイツ語子音推移とよばれることもある)を閲(けみ)することによって、他のゲルマン語、したがってまた北部ドイツのドイツ語(いわゆる「低地ドイツ語」NiederdeutschまたはPlattdeutsch)とも異なる様相を呈することになった。前述のとおり、このようにして生まれた「高地ドイツ語」が、標準ドイツ語の基盤となったのに反し、「低地ドイツ語」は、フリッツ・ロイターFritz Reuter(1810―74)のような低地ドイツ語作家の存在にもかかわらず、今日なお文章語としては確立されていない。
なお、標準ドイツ語の成立にあたっては、ルターの聖書翻訳や、印刷術の発達と普及、ゲーテをはじめとする幾多の文人・作家、さらには文法学者などの努力が大いに貢献した。また、つづり字の統一についてはドゥーデンKonrad Duden(1829―1911)の、標準発音の確立についてはフィーエトルWilhelm Viëtor(1850―1918)およびジープスTheodor Siebs(1862―1941)の功績を忘れるわけにはいかない。
ほぼ1200年にわたるドイツ語の変遷史のなかで、とくに目だつのは、母音の単純化と衰微である。たとえば、名詞・形容詞の格変化や動詞の活用においても、昔のドイツ語は、現代ドイツ語よりはるかに多彩な母音を誇っていた。強変化(不規則変化)動詞が弱変化(規則変化)動詞に転ずることはあってもその逆はほとんどないことや、時代が下るにつれて接続法の使用範囲が狭まりつつあることなども、この傾向に拍車をかけている。
[濱川祥枝]
文章語としてのドイツ語は、文法・つづり字および発音のそれぞれについて、ドイツ語地域全体に通用する標準がほぼできあがっている。けれども、日常生活で使用される口語においては、方言が幅をきかしているばかりではなく、発音にしても、標準発音の存在にもかかわらず、多くの場合、当人のおよその出身地がすぐさま聞き分けられる程度には、訛(なま)りのかかった発音が大手を振ってまかり通っているのが普通である。こうした方言は、細分し始めればそれこそきりがなく、極端な場合には隣村同士でさえ違うこともある。しかし大別すると、ドイツの方言は、北部の「低地ドイツ語」と南部の「高地ドイツ語」に分かれる(オランダ語は、今日では独立した独自の国語とされているが、系列からいえば低地ドイツ語の一分派である)。そして、いわゆる学校文法で標準ドイツ語だけを学んだ人には、このドイツ語各方言のあいだの著しい相異は想像しにくいが、よくいわれる、「北ドイツの人と南ドイツの人がそれぞれの方言で話をしたら、通訳なしではお互いに何をいっているかわからないだろう」というのは、けっして誇張ではない。
こうした方言差のほか、ドイツ語では、日常語で用いられる単語に、地域によって相違がみられることがある。たとえば、「肉屋」は、北部ではSchlachter、中東部ではFleischer、南部ではMetzger、オーストリアではFleischhackerないしFleischhauerという。「カーニバル」は、ライン地方のケルンやマインツではKarnevalであるが、ミュンヘンをはじめ南部ではFaschingが定着している。「ネクタイ」は普通Krawatteというが、北部および中部ではSchlipsを用いることが多い。「馬」を意味する標準ドイツ語はPferdであるが、中部ではGaul、オーストリアを含めた南部ではRoßという。「土曜日」は、標準ドイツ語ではSonnabendとSamstagがともに用いられるが、日常語としては、前者はデュッセルドルフ以北の地域で、後者はおもに南部で用いられる。「少年」を意味するKnabeは、Wiener Sängerknaben(ウィーン少年合唱団)のような少数の合成語の場合を除き、すでに雅語となっており、普通は、北部および中部ではJunge、南部ではBubという等々。
[濱川祥枝]
ドイツ語は造語能力の豊かな言語である。たとえば、不定詞はすべて、頭文字を大文字で書くことによって中性名詞化されうるから、少なくとも理論的には、不定詞と同じ数だけの同つづり中性名詞が存在する。いや、目的語はむろんのこと、状況語を伴った不定詞さえ、一語として中性名詞になりうるから、その数はまだまだ増加する。形容詞の名詞化という現象もある。形容詞として使用可能な現在分詞・過去分詞をも含め、すべての形容詞は、頭文字を大文字で書いて名詞にする――しかも三つの性すべての名詞をつくる――ことができるから、こうしてつくられうる名詞もたいへんな数に上る。また、前つづりのついたいわゆる複合動詞で辞書に普通収録されているものはごく限られているが、これまた、理論上可能な前つづりと動詞の組合せの数は、ほとんど無限といってよい。それだけに、ドイツ語を読んだり聞いたりしていて、辞書に出ていない単語に出会う可能性もまた大きいわけで、そういう場合には、その単語をいったん既知の要素に分解し、しかるのちそれらを再合成すればよい。
[濱川祥枝]
ドイツ語を母国語とする人の数は、現在およそ1億人である。そのだいたいの内訳は、ドイツ連邦共和国に7400万人、オーストリアに755万人、スイスのドイツ語地域に400万人余り(これはスイスの総人口の約3分の2にあたる)、がおもなところで、ルクセンブルクおよびリヒテンシュタインでもドイツ語は公用語であるが、数のうえからいえば、両国をあわせて40万人足らずにすぎない。
以上のほか、国境の変更や移民の関係から、ベルギー、フランス、イタリア、チェコ、スロバキアなど、ドイツないしオーストリアやスイスの隣接諸国、あるいは、旧ソ連地域、ルーマニア、ハンガリー、アメリカ、カナダ、ブラジル、アルゼンチン、パラグアイ、南アフリカ、ナミビア、オーストラリアなどにもドイツ語グループが存在する。
これら広義のドイツ語圏のうち、ドイツがその中核になっているところから、この国で使用されるドイツ語を「ドイツ本国のドイツ語」Binnendeutschとよんで、とくにオーストリアおよびスイスのドイツ語と対置することがあり、事実、オーストリアとスイスでは、公的な文書においても、意識的に「本国のドイツ語」とは異なった単語や表現形式が用いられることも珍しくない。他方、北イタリアのトレントやベローナの周辺には、それぞれ小規模ながら、ドイツ語の「孤立言語圏」Sprachinselがいくつもあり、非常に古い時代の移民の子孫であるこれら地域の住民は、中高ドイツ語、さらにはゴート語(東ゲルマン語の一分派)にまでさかのぼる、たいへん古めかしい言語習慣をいまだに温存しているという。
ところで、ドイツ語圏であるドイツの「本国のドイツ語」も、東西に分かれていたころの社会・経済体制の相違から、お互いにかなり違ったものになってきつつあった。そして、このままの状態が続けば、ドイツ語は「西ドイツ語」と「東ドイツ語」に分裂してしまうのではないかという危惧(きぐ)が表明されることさえあった。確かに、政治や経済の領域の語彙(ごい)は両ドイツでかなり違っていたばかりではなく、同じ単語でもまるで意味の違うこともしばしばあったし、そのままでは他方のドイツで通用しない単語も次々に登場した。また、旧西ドイツでは英語の、旧東ドイツではロシア語の影響が著しいという事実も軽視はできなかった。しかし、両ドイツのドイツ語の基本語彙や文法の根幹は同一であり、また文章語という形で幾重にも固定されていたし、ドイツの統一を経た今日では、ドイツ語がかつての東西ドイツにおいてまったく別の道を歩むことになるとはまず考えられない。
なお、政治や経済の領域における国際通用語としては、英語、フランス語、ロシア語およびスペイン語の後塵(こうじん)を拝しているドイツ語も、こと文化の各領域ではいまなお大きな役割を果たしており、たとえば、世界中で出版される書籍の10冊に1冊はドイツ語で書かれているし、ドイツ書の翻訳も、英語およびフランス語の書籍の翻訳に次いで世界第三位を占めている。また、第二次世界大戦を挟んで低下していた外国人のドイツ語熱もここ数十年間とみに回復し、現在では、60余りの外国で1700万人以上の人々がドイツ語を習っているといわれる。
[濱川祥枝]
同じ語系の、しかも非常に近い関係にある言語とはいえ、英語がいわば「革新的」な変化の歴史をたどり、名詞の性、冠詞・名詞・指示代名詞・付加語的形容詞の屈折語尾、動詞の人称変化語尾などを次々に失っていったのに対し、ドイツ語は、これらのものをいまなおかなりの程度まで保持している。たとえば、すべての単数名詞は男性・女性または中性という三つの性のいずれかに属するほか、一格から四格まで、四つの格をもっている。英語が「入りやすいが窮めがたい言語」、ドイツ語はその反対とされることが多いのは、主としてこの事実に基づいている。
また、ドイツ語の名詞は、いまなお頭文字を大文字で書くのが普通である。したがって、文中の単語が名詞であることだけはただちに見分けることができる。この習慣は中高ドイツ語にはまだなく、一般化したのは16世紀末ごろであるが、1948年にデンマーク語がこの習慣を廃止して以来、ヨーロッパ諸言語のなかで、ドイツ語だけのユニークな特色となっている(ただし、ドイツ語では名詞の定義がとくにむつかしいことなどいくつかの理由で、この習慣はつねに論議の的になっており、廃止論者の勢力は漸次強まりつつある)。
文章内での単語や句の位置(いわゆる語順)については、ドイツ語にもかなり複雑かつ厳密な規定があり、副文(従属文)では動詞(定動詞)が文末に置かれることなど、ドイツ語の際だった特色の一つであるが、英語に比し、ドイツ語の語順は一般にかなり自由である。たとえば英語の場合、〔1〕The hunter killed the bear.は「その猟師はそのクマを殺した」、〔2〕The bear killed the hunter.は「そのクマはその猟師を殺した」の意味であり、かつ、この意味でしかありえないが、〔1〕にあたるドイツ文はDer Jäger tötete den Bären.、〔2〕にあたるそれはDer Bär tötete den Jäger.であるとはいえ、この二つの文章において主語と目的語の位置を入れ替えて、それぞれDen Bären tötete der Jäger.およびDen Jäger tötete der Bär.とすることは――意味のうえで多少ニュアンスの相違が生まれる可能性はあるものの――文法的にはまったく問題がない。この例文の場合、このように語順を変えても基本的には意味が変わらず、しかも誤解のおそれが生じないのは、英語と違い、主語および目的語の格が屈折語尾によって明示されているからにほかならないが、たまたま主格と目的格が同形の場合――しかも、中性・女性および複数名詞の場合にはつねにそうであるが――には、一つの文章が二様に解釈される可能性が生まれる。たとえば、Das Kind tötete die Mutter.という文章は、「その子供はその母親を殺した」とも、「その母親はその子供を殺した」ないし「その子供をその母親は殺した」とも解釈でき、そのいずれの解釈が正しいかは、(語勢をも含む)コンテクストによって判断するほかない。Wolf klopfte das Herz.という文章は、初心者には「オオカミが心臓をたたいた」と迷訳されかねない。正解はむろん「ウォルフさんは心臓がどきどきした」で、この場合のWolfは三格の人名である。Wolfという単語が、「オオカミ」という意味で無冠詞・単数の形で用いられることはありえない。こうした文章が可能なのも、ドイツ語の語順がそれほど固定されていないからである。
[濱川祥枝]
『相良守峯著『ドイツ文法』(1979・岩波全書)』▽『濱川祥枝著『ドイツ文法の初歩』(1978・白水社)』▽『濱川祥枝著『現代ドイツ語』(1975・白水社)』▽『ハンス・エガース著、岩崎英二郎訳『二十世紀のドイツ語』(1975・白水社)』
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…古くはアーリヤ語族Aryanという名称も用いられたが,これはインド・イラン語派の総称で,印欧語族については不適当である。インド・ゲルマン語族の名は,ドイツ語で今日もなお慣用となっているIndo‐Germanischに由来する。この名称は,東のインド語派と西のゲルマン語派をこの大語族の代表とみる考え方に基づいてつくられたものであるが,ドイツ語以外では使用されない。…
※「ドイツ語」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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