南北朝時代の1349年(正平4・貞和5)から52年(正平7・文和1)まで続いた室町幕府の内部抗争。初期の室町幕府の政治体制は足利尊氏(たかうじ)と弟足利直義(ただよし)の二頭政治で,尊氏は封建制の根幹にかかわる恩賞授与,守護職任免などをみずから行い,直義にはしだいに所領安堵,所領に関する裁判,軍勢の動員などの権限をゆだねた。尊氏の執事高師直(こうのもろなお)は直義の権限拡大に反発し,2人の対立は42年(興国3・康永1)ごろから表面化したが,これは直義が相論裁定の立場上,公家・寺社の権益擁護に傾きがちであったのに対し,恩賞方の実権をにぎる師直は,国人(こくじん)層の所領獲得要求にこたえるため直義の政策に反対したとみることもできる。この幕府首脳部の対立は,複雑な利害のからみ合う幕府諸将や諸国国人層に両陣営への分裂をひきおこしたが,概していえば,畿内近国の新興外様守護や中小国人層の多くが師直を支持し,有力な足利一門守護,幕府吏僚層,東国・九州などの伝統的豪族は直義支持に傾いたといえよう。
1347年(正平2・貞和3)楠木正行の率いる南朝軍が河内に挙兵し,直義党細川顕氏・畠山国清を破ったが,高師直はみずから幕府軍を率いて48年1月正行を倒し,吉野に攻め入り行宮を焼いた。この戦果によってにわかに勢威を強めた師直に対抗するため,49年4月直義は養子足利直冬を長門探題として中国に送り,ついで側近の上杉重能・畠山直宗とともに師直打倒を図った。しかし師直は同年8月自党とともに幕府を囲み,尊氏に迫って直義を引退させ,重能・直宗を配流したうえ殺し,尊氏に勧めて嫡子義詮を鎌倉から呼んで政務にあずからせた。直冬は養父直義支援のため挙兵し,九州に移って勢力を広げたので,尊氏は50年(正平5・観応1)10月みずから師直以下を率いて直冬追討に進発した。直義はその直前河内にのがれ,畠山国清・細川顕氏らに擁せられて挙兵し,ついに両党の対立は尊氏・直義兄弟の対戦へと発展した。
戦乱はたちまち全国的規模に拡大したが,それは2段階に分かれる。第1次は直義党の優勢のうちに展開した。西国では直冬が少弐氏以下に支持されて反撃に転じ,関東では両執事のうち直義党の上杉憲顕が師直の甥高師冬をたおし,奥州では両管領のうち直義党の吉良貞家が師直党の畠山国氏を滅ぼした。畿内近国でも51年(正平6・観応2)正月,直義党の桃井直常・斯波高経・吉良満貞らは義詮を駆逐して京都を占領し,さらに2月には直義軍は摂津打出浜(うちではま)に尊氏軍を破った。尊氏は,直義に和睦を申し入れ,帰京の途についたが,高師直は一族とともに,上杉重能の養子上杉能憲らに襲われて殺された。
幕府政治は直義の主導下に再開されたが,直義が寺社本所領押領停止・使節遅怠処罰の法令を発布するなど,公家寺社擁護政策を繰り返したので,国人層の所領獲得要求の激化に直面していた守護級武将は次々と直義を離れ,おもに関東・北陸などに基礎をおく守護級武将の一部が直義党に残る状態となった。直義は7月政務を辞したが,8月尊氏・義詮が東西の敵の追討と称して進発するや,挟撃をおそれた直義は自党の畠山国清・斯波高経・桃井直常らとともに越前にのがれた。直義勢は追撃する尊氏勢と近江で戦い,第2次の戦乱となったが,今次は尊氏党が優勢であった。尊氏・直義は近江の興福寺で会見したが,和睦は成らず,国清・高経らも尊氏に下り,直義支持勢力は越中の桃井直常,関東執事上杉憲顕,それに中国・九州の直冬党のみとなった。直義は北陸を経て関東にのがれ憲顕をたよった。尊氏は南朝の後村上天皇に下って直義追討の綸旨を受け,11月義詮に畿内・西国の政務をゆだねて東海道を進撃し,52年正月直義軍を箱根の早川尻に破り,直義を下して鎌倉に入り,2月直義は急死した。《太平記》などは毒殺と伝えている。
擾乱は尊氏の勝利に終わったが,分裂した幕府権力の再建は容易でなく,南北朝内乱の激化,南朝の延命などの影響をおよぼした。南軍は52年閏2月畿内・関東で一斉に蜂起し,畿内では京都を一時占領して北朝の天皇・両上皇・皇太子を奪い去り,関東では上杉憲顕勢を加えて一時は尊氏を追って鎌倉を占領した。また九州では直冬党と探題一色氏との対戦に乗じて征西将軍懐良親王が菊池氏に擁せられて勢力を拡大した。直冬は南朝に帰順して中国に移り,畿内の南軍,北陸の桃井,さらに幕府中枢から疎外された山名時氏などを戦列に加え,55年(正平10・文和4)まで2回にわたり京都を占領した。こうした内乱の激化は幕府に国人層の掌握と守護の権限強化の必要性を痛感させ,国人一揆の禁圧から戦力としての利用への転換,半済法の公布による国人層の所領要求への積極的対応,守護の所領安堵や国衙支配の容認などの対応策が打ち出された。そして尊氏は,しだいに義詮に権限を委譲し,幕府が二頭政治から一頭政治へと移行したことも観応の擾乱の影響といえよう。
→南北朝時代 →南北朝内乱
執筆者:小川 信
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1349年(正平4・貞和5)から52年(正平7・文和1)にかけて起きた室町幕府中枢部の分裂と、それによって惹起(じゃっき)された全国的な争乱。この間の北朝年号が観応(1350~52)であったことから、この名がある。
[佐藤和彦]
足利尊氏(あしかがたかうじ)・直義(ただよし)兄弟による将軍権限の分割政治(二頭政治)のもつ矛盾が、擾乱発生の根本原因であり、新興武士団が実力によって旧体制を打破していくことを承認した高師直(こうのもろなお)(尊氏執事(しつじ))の急進的な行動が、この矛盾をいっそう拡大させた。
[佐藤和彦]
室町幕府軍が1347年(正平2・貞和3)に河内(かわち)・和泉(いずみ)の南軍と対決したとき、直義派の細川顕氏(ほそかわあきうじ)・山名時氏(やまなときうじ)らが敗退したのに反して、翌年正月楠木正行(くすのきまさつら)らの南軍を破り吉野の攻略に成功した師直の声望が高まった。直義は、師直の勢力伸張を恐れ、49年閏(うるう)6月、師直の執事職罷免を尊氏に強請した。これに抗して、8月、師直は自派を京都に結集し、直義が逃げ込んだ尊氏邸を包囲し、直義の政務(評定(ひょうじょう)、引付(ひきつけ)、安堵方(あんどがた)、問注所(もんちゅうじょ)の支配)の罷免、足利義詮(よしあきら)を関東から上洛(じょうらく)させ、直義にかわって政務につかせることを要求して実現し、直義派の上杉重能(うえすぎしげよし)、畠山直宗(はたけやまなおむね)らを流刑にし、のち殺害した。
[佐藤和彦]
1350年(正平5・観応1)10月、尊氏・師直らは、直義の養子で中国・九州地方で威勢を振るう直冬(ただふゆ)を討つために西下した。この間隙(かんげき)を縫って、直義は大和(やまと)に向かい、北畠親房(きたばたけちかふさ)を介して南朝と結び、山名時氏、斯波高経(しばたかつね)らを傘下に加えて勢力を挽回(ばんかい)し、翌年正月、義詮を京都から追放した。関東においても、直義派の上杉憲顕(のりあき)は、高師冬(もろふゆ)を甲斐(かい)須沢(すさわ)城(山梨県韮崎(にらさき)市)に攻めて自刃させた。尊氏派と直義派との全面的な武力衝突が畿内(きない)各地において展開したが、ついに2月、摂津打出浜(うちでのはま)の合戦において尊氏派は敗れ、師直・師泰(もろやす)は上杉能憲(よしのり)(重能の養子)によって殺害された。
[佐藤和彦]
打出浜の合戦の勝利の結果、直義は義詮の政務を後見することとなったものの、内訌(ないこう)は鎮静せず、両派の対立が続いていた。この間、5月には、南朝との和議が破れ、南軍は京都奪回を試み、幕府中枢はふたたび分裂するに至った。7月、直義は自ら政務の返上を申し入れ、尊氏・義詮による挟撃を恐れて、8月には、斯波高経らを率いて、桃井直常(もものいなおつね)ら自派の守護で固めた北陸へと逃亡した。9月、近江(おうみ)の合戦に敗れた直義は、上杉憲顕を頼って関東に向かい、11月には鎌倉へ入った。尊氏は、鎌倉を攻撃するために南朝と和睦(わぼく)し、駿河(するが)・伊豆で直義軍を破り、1352年(正平7・文和1)正月には鎌倉を占領し、2月直義を毒殺して擾乱に終止符を打った。
[佐藤和彦]
室町幕府中枢部の分裂により惹起した擾乱は、弱体化しつつあった南朝勢力を復活させることとなり、天下三分の形成を生み、内乱を深化、拡大させることとなった。しかし、擾乱克服の過程において、管領(かんれい)制が生み出されたことにより、幕府の政治機構の一元化も進んでいった。
[佐藤和彦]
『佐藤進一著『室町幕府開創期の官制体系』(石母田正・佐藤進一編『中世の法と国家』所収・1960・東京大学出版会)』▽『佐藤進一著『南北朝の動乱』(1965・中央公論社)』▽『佐藤和彦著『南北朝内乱』(『日本の歴史11』1974・小学館)』▽『佐藤和彦著『南北朝内乱史論』(1979・東京大学出版会)』
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足利尊氏・直義(ただよし)兄弟の対立によりおこった室町幕府の分裂とそれに連動する全国的内乱。初期室町幕府は,恩賞給与・守護職任免などの主従制的支配権を将軍尊氏が握り,所領裁判権・安堵権を中核とする統治権的支配権を弟直義が掌握する体制をとっており,必然的にそれぞれを中心とする党派が形成された。尊氏の権限を代行したのは執事の高師直(こうのもろなお)で,まず師直と直義との抗争が表面化した。1349年(貞和5・正平4)師直が尊氏に迫り直義を引退させると,直義の養子直冬(ただふゆ)が西国で挙兵。翌50年(観応元・正平5)には直義党の上杉憲顕(のりあき)・能憲(よしのり)父子が関東で,直義自身も南朝に帰順して河内で挙兵した。51年2月,直義党は師直以下の高一族を摂津国武庫川(むこがわ)で殺害し,尊氏と一時和睦して幕府の実権は直義が握った。しかし直義が寺社本所擁護の政策をくり返した結果,離反する武将が相次ぎ,同7月直義は政務を辞して引退。8月,尊氏・義詮(よしあきら)父子が東西から直義を挟撃しようとして出京すると,直義は京都を脱出,勢力圏である北陸路をへて鎌倉をめざした。今度は尊氏が南朝に降り,直義討伐を正当化して,11月東海道を東下,52年(文和元・正平7)1月直義軍を破って鎌倉に入り,2月26日直義を殺害。直義の死で幕府の二元的権力はしだいに統一にむかうが,直冬をはじめ直義党武将の反抗はなお続けられ,南朝方の延命につながった。
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…後醍醐天皇を支持する諸国の南朝方は各地で足利方に抗戦したが,足利方は積極的な所領政策などにより多数の国人に支持され,南朝方はしだいに諸国の拠点を失った。しかし49年(正平4∥貞和5)以来幕府諸将間の対立が露呈し,翌50年(正平5∥観応1)尊氏党と直義党に分かれてはげしい内戦(観応の擾乱(じようらん))を展開するにおよび,漁夫の利を得た南朝方は延命のいとぐちをつかみ,直義の敗死後は南軍に下った旧直義党武将とともに再三京都に突入した。とくに鎌倉後期以来諸豪族の利害対立が深刻で,反幕府的風潮の強かった九州は,ほとんど南朝方の制圧下に入った。…
※「観応の擾乱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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