藤原忠清(読み)ふじわらのただきよ

朝日日本歴史人物事典 「藤原忠清」の解説

藤原忠清

没年:文治1.5.16(1185.6.15)
生年:生年不詳
平安末期の武将平氏家人。景綱の子。別名忠景。伊藤五とも称す。伊勢を本拠とする平氏累代の家人の家に生まれ,保元の乱に参戦。治承3(1179)年政変後には従五位下上総介に任ぜられた。また坂東8カ国の侍を奉行したとされ,翌年の源頼朝挙兵の際,大庭景親に指示を下している。富士川の戦には副将として参戦,平氏の不利を察知して総大将の平維盛退却を勧めた。平清盛の死後出家,平氏都落ちには同道せず京に留まったが,元暦1(1184)年,平田家継らの蜂起に参加,翌年志摩で捕らえられ京で斬首された。一族と共に平氏軍制の中核を占めた家人であった。<参考文献>角田文衛平家後抄』,西村隆「平氏家人表」(『日本史論叢』10輯)

(元木泰雄)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原忠清」の解説

藤原忠清(1) ふじわらの-ただきよ

?-1185 平安時代後期の武将。
藤原景綱の子。平家の家人で,本拠は伊勢(いせ)(三重県)。坂東八ヵ国の侍別当となり,富士川の戦いでは平維盛(これもり)の副将。平家都落ちに同行せず,元暦(げんりゃく)元年伊賀の平田家継らの挙兵にくわわって敗走。元暦2年5月16日京都で処刑された。通称は伊藤五。

藤原忠清(2) ふじわらの-ただきよ

坊門忠清(ぼうもん-ただきよ)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android