朝日日本歴史人物事典 「藤原忠清」の解説
藤原忠清
生年:生年不詳
平安末期の武将。平氏の家人。景綱の子。別名忠景。伊藤五とも称す。伊勢を本拠とする平氏累代の家人の家に生まれ,保元の乱に参戦。治承3(1179)年政変後には従五位下上総介に任ぜられた。また坂東8カ国の侍を奉行したとされ,翌年の源頼朝挙兵の際,大庭景親に指示を下している。富士川の戦には副将として参戦,平氏の不利を察知して総大将の平維盛に退却を勧めた。平清盛の死後出家,平氏都落ちには同道せず京に留まったが,元暦1(1184)年,平田家継らの蜂起に参加,翌年志摩で捕らえられ京で斬首された。一族と共に平氏軍制の中核を占めた家人であった。<参考文献>角田文衛『平家後抄』,西村隆「平氏家人表」(『日本史論叢』10輯)
(元木泰雄)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報