平維盛(読み)たいらのこれもり

  • 1158―84?
  • たいらのこれもり〔たひら〕
  • 平維盛 たいらの-これもり

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

平安時代末期の武将重盛嫡子小松中将と称される。平家一門の嫡流として出世。治承4 (1180) 年源頼朝挙兵の際,追討大将軍として東国に発向。富士川の戦いでは,夜,水鳥羽音に驚いて戦わずに逃げ帰った。翌年3月尾張墨俣の戦い源氏撃破,その功により右近衛権中将,従三位となった。寿永1 (82) 年木曾義仲追討のため北国へ発向。倶利伽羅 (くりから) の戦いで大敗 (→礪波山〈となみやま〉の戦い ) 。義仲が上京し平家一門が西国に没落したとき,一時は都落ちしたらしいが,その後の消息は不明。物語類では,屋島で平家の陣を抜け出し (→屋島の戦い ) ,高野山出家熊野灘へ舟を出して入水して果てたという。

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百科事典マイペディアの解説

平安末期の武将。重盛の子。1180年源頼朝の挙兵に際し,追討大将軍となるが富士川の戦で敗走。尾張(おわり)に源行家を討ったが,礪波(となみ)山の戦では源義仲に敗れ,のち平家一族とともに西走。その後,紀伊那智(きいなち)で入水(じゅすい)したという。
→関連項目倶利伽羅峠の戦手越宿

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

1158?-1184? 平安時代後期の武将。
保元(ほうげん)3年?生まれ。平重盛長男。治承(じしょう)4年源氏追討の総大将となったが,富士川で水鳥の羽音におどろいて敗走する。寿永2年源義仲軍に敗れ都落ちした。3年2月屋島より脱出し高野山で出家したが,同年3月28日那智で入水したといわれる。27歳?通称桜梅少将,小松中将。法名は浄円

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朝日日本歴史人物事典の解説

没年:元暦1.3.28?(1184.5.10)
生年:保元2?(1157)
平安末期の武将。平重盛の長男。清盛の嫡。小松中将と称す。右中将・蔵人頭を歴任。舞の優美さで世人の称賛を得る。治承4(1180)年,源頼朝追討の総大将として臨んだ富士川合戦で,水鳥の羽音に驚き敗走。寿永2(1183)年礪波山の戦では源義仲に敗れ,平家都落ちの因を作る。文治1(1185)年屋島の陣を脱し,高野山で出家。滝口入道立ち会いのもとに那智で入水と『平家物語』は伝えるが,『源平盛衰記』は,頼朝を頼り東下,相模で没したと記す。平氏一族における立場は終始微妙で,晩年の行動は謎が多い。<参考文献>上横手雅敬『平家物語の虚構と真実』上

(上杉和彦)

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世界大百科事典 第2版の解説

1157‐84?(保元2‐元暦1?)
平安末期の武将。通称桜梅少将,小松中将。重盛の長男。平氏の嫡流として幼少より重んじられる。1180年(治承4)源頼朝追討の総大将となったが富士川の戦で敗走。翌年尾張墨俣川の戦で源行家を破り,その功により右中将・蔵人頭・従三位に進む。83年(寿永2)越中砺波(となみ)山の戦で源義仲に大敗し,妻子を京都に残して平家一門と西海に走ったが,のち紀伊にのがれ那智で入水したという。【田中 文英】

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大辞林 第三版の解説

1158~1184? 平安末期の武将。重盛の長子。小松中将・桜梅少将とも。源頼朝と富士川で対陣し、水鳥の羽音に驚いて敗走。また、義仲追討に赴いたが、俱利伽羅くりから峠で大敗した。のち滝口入道のもとで出家。那智で入水した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

平安末期の武将。平重盛(しげもり)の長男。平氏の嫡流のため幼少より重んぜられ、右近衛権少将(うこのえごんのしょうしょう)、中宮権亮(ちゅうぐうごんのすけ)、春宮(とうぐう)権亮などを歴任した。容姿秀麗で、後白河(ごしらかわ)法皇の50歳の賀に際し、桜花をかざして青海波(せいがいは)を舞い称賛され、桜梅(おうばい)少将ともよばれた。源平争乱が起こると、1180年(治承4)源頼朝(よりとも)追討の総大将として富士川に対陣したが、水鳥の羽音に驚いて敗走し、清盛の怒りを買った。翌年の尾張(おわり)墨俣(すのまた)川の戦いでは源行家(ゆきいえ)の軍を破り、その功によって、右中将(うちゅうじょう)、蔵人頭(くろうどのとう)、従三位(じゅさんみ)に昇進し、世に小松三位中将とよばれた。ついで83年(寿永2)5月に源(木曽(きそ))義仲(よしなか)追討のため北陸に向かったが、越中(えっちゅう)(富山県)の礪波山(となみやま)において義仲の奇襲を受けて大敗し、平家一門と都落ちして西海に走った。しかし、『平家物語』によると、世の無常を感じて讃岐(さぬき)(香川県)の屋島(やしま)から脱出して高野山(こうやさん)に入り、剃髪(ていはつ)して浄円(じょうえん)と号し、84年(元暦1)3月、那智(なち)の海に入水(じゅすい)したという。ただし、その最期については伝承、異説が多い。[田中文英]

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精選版 日本国語大辞典の解説

平安末期の武将。重盛の子。桜梅少将、小松中将と呼ばれた。治承四年(一一八〇)、頼朝と富士川で対陣したが、水鳥の羽音に驚いて敗走した。寿永二年(一一八三)には義仲を討とうとして、倶利伽羅峠に敗れた。保元三~寿永三年頃(一一五八‐八四頃

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旺文社日本史事典 三訂版の解説

1158〜84?
平安末期の武将
清盛の孫。重盛の子。1180年源頼朝挙兵のとき頼朝追討の大将軍となったが,富士川の戦いで敗走。その後,砺波山 (となみやま) の戦いでも惨敗した。平氏一門と都落ちしたが,屋島で離脱し,紀伊(和歌山県)の那智で入水したと伝えられる。

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世界大百科事典内の平維盛の言及

【熊野参詣】より

…フシ物。平維盛(これもり)は,屋島の戦陣を離脱して紀州に渡り,高野山で髪をおろした後,熊野三山参詣に赴いた。最初に参った本宮は,本地(ほんじ)が阿弥陀如来だというので,来世の往生を願い,また都に残した妻子の平穏を祈った。…

【俱利伽羅峠の戦】より

…〈砺波山(となみやま)の戦〉ともいう。1183年(寿永2)5月,越中・加賀国境の砺波山俱利伽羅峠で,木曾義仲が平維盛の軍を破った戦闘。80年(治承4)9月信濃に挙兵した義仲は,信濃,越後を制圧,81年中には越前以東の北陸道の武士を多く指揮下に置いた。…

【補陀落渡海】より

…しかし伝承では,水葬の棺を沈めたのは那智沖の山成島の岩礁であったという。この山成島はまた,《平家物語》の〈維盛入水の事〉では,中将平維盛が念仏とともに飛び込んで入水往生したところで,供の与三兵衛重景と石童丸も同行として入水した。そうすると中世の補陀落渡海には入水往生が多く,土中入定,焼身往生などとともに捨身往生の一形態であったことがわかる。…

【横笛】より

…フシ物。平維盛(これもり)は,都の妻子が気がかりでひそかに屋島の戦線を離れ,高野山に滝口入道(滝口・横笛)を訪ねた。この僧はもと館に仕えた武士で,若いころ横笛という女と恋をした。…

※「平維盛」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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