藤島庄(読み)ふじしまのしよう

日本歴史地名大系 「藤島庄」の解説

藤島庄
ふじしまのしよう

九頭竜くずりゆう川中流域の南側一帯を荘域とする広大な荘園で、東に志比しひ庄が続く。

建永元年(一二〇六)一二月の慈円起請文(門葉記)に「藤島庄越前国、件庄者、重々子細甚以委悉也、具記録之、可貽後代而已、先件庄者、為平氏没官地、頼朝卿領知之間、以別願白山平泉寺所令寄進也」とあり、平家没官領として源頼朝が領知ののち平泉へいせん(跡地は現勝山市)に寄進している。ただそれ以前、寿永二年(一一八三)五月、源義仲が藤島七郷を平泉寺へ寄進したことが「平家物語」にみえており、これが藤島庄と同一のものであるとすれば、頼朝の寄進は、義仲打倒後その寄進を追認する形で行われたことになろう。頼朝寄進の時点は明らかでないが、「吾妻鏡」文治六年(一一九〇)四月一九日条に「造太神宮役夫工米地頭未済事」として、「藤島保以牒状触平泉寺」とあり、この藤島保がまた当庄と同一のものであるとすれば、この当時、すでに平泉寺が当庄に対し何らかの権限を保持していたことになる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報