斯波高経(読み)しばたかつね

精選版 日本国語大辞典 「斯波高経」の意味・読み・例文・類語

しば‐たかつね【斯波高経】

南北朝時代武将越前・若狭の守護。尾張守。足利尊氏挙兵に従い功を立てる。のち、子義将を推挙して執事とし、自身背後にあって幕政を左右したが、貞治五年(一三六六)失脚し、越前国で死んだ。嘉元三~貞治六=正平二二年(一三〇五‐六七

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

デジタル大辞泉 「斯波高経」の意味・読み・例文・類語

しば‐たかつね【斯波高経】

[1305~1367]南北朝時代の武将。越前若狭の守護。足利尊氏に従い、新田義貞を越前藤島で滅ぼす。後に子の義将を管領とし、その後見として幕府の実権を握るが、佐々木高氏らの讒言ざんげんにより失脚。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「斯波高経」の意味・わかりやすい解説

斯波高経
しばたかつね
(1305―1367)

南北朝時代の武将。孫三郎、尾張守(おわりのかみ)、修理大夫(しゅりのだいぶ)。法号道朝(どうちょう)。宗氏(むねうじ)(のち家貞か)の子。元弘(げんこう)の変以来足利尊氏(あしかがたかうじ)に従い、越前(えちぜん)守護となり、1338年(延元3・暦応1)新田義貞(にったよしさだ)を討ち滅ぼし、ついで越前を平定。一時若狭(わかさ)守護を兼ねたが、尊氏に冷遇されたため、観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)には足利直義(ただよし)に味方した。その後も足利直冬(ただふゆ)にくみしてふたたび背いたが、56年(正平11・延文1)幕府に帰順し、62年(正平17・貞治1)四男義将(よしまさ)を幕府執事(しつじ)に推して後見し、管領(かんれい)とよばれた。66年将軍義詮(よしあきら)に疑われて義将らとともに越前に逃れ、翌年7月13日同国杣山(そまやま)城(福井県南条郡南越前町阿久和)で病没した。なお、弟家兼(いえかね)は奥州探題、二男氏経(うじつね)は九州探題となった。

小川 信]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「斯波高経」の意味・わかりやすい解説

斯波高経【しばたかつね】

南北朝時代の武将。足利宗氏(家貞)の長男。通称孫三郎,官途尾張守,修理大夫。元弘の乱以来足利尊氏に従って転戦,1334年越前守護となる。1338年南朝方の新田義貞を越前藤島(ふじしま)に討った。ついで若狭守護を兼ねたが,尊氏に疎まれ守護職を失い,足利直義(ただよし)方の有力者となった。観応の擾乱中,尊氏に帰順して越前守護に復す。1354年足利直冬(ただふゆ)方となって幕府に背いたが,翌年再び幕府に帰順した。1362年幕府執事(しつじ)となった4男斯波義将(よしゆき)を後見し,さらに5男義種(よしたね)を侍所頭人(さむらいどころとうにん)・山城守護,嫡孫義高(よしたか)を引付(ひきつけ)頭人とし,いずれも後見して権勢をふるった。→斯波氏
→関連項目金崎城

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

朝日日本歴史人物事典 「斯波高経」の解説

斯波高経

没年:貞治6/正平22.7.13(1367.8.9)
生年:嘉元3(1305)
南北朝時代の武将。宗氏の子,または家貞の子とも伝えられている。母は大江時秀の娘といわれている。官途は尾張守,修理大夫。高経の初見は,北条高時十三回忌供養の折,足利孫三郎としてみえている。建武1(1334)年ごろに越前国に下り守護として活躍し始める。同年末より翌年1月にかけて,紀伊国の北条残党を討ち,中先代の乱のときには,足利尊氏と共に東国に下り,さらに上洛して建武政権を倒した。建武3/延元1年越前守護に復し,新田義貞と激戦を展開し,暦応1/延元3(1338)年閏7月,義貞を討ち取り,越前国を完全に掌握する。康永1/興国3(1342)年将軍足利尊氏と不和になり,兼任していた若狭守護とともに越前守護職も没収された。このため足利直義に近付き,観応の擾乱では直義派として行動するが,擾乱の末期に室町幕府方となり,越前守護も安堵された。文和3/正平9(1354)年足利直冬に呼応して,反幕府の兵を越前であげたが,直冬が没落すると,延文1/正平11年再度幕府に復帰した。延文3/正平13年尊氏が死去すると,佐々木導誉と結んで,ライバルの細川清氏を追い落とし,貞治1/正平17年には4男の義将を幕府の執事となして,幕府内の実権を握り始めた。このため彼の3男で女婿である氏頼を推す導誉と激しく対立。幕府内の導誉派の勢力を削ぎ,幕政を完全に牛耳るようになったが,九州探題となった子の氏経の九州経営の失敗,分国越前における興福寺衆徒の強訴などを契機として,急速に勢力を失い,貞治5/正平21年足利義詮が高経の追討を命じたことにより,越前に逃れて,翌年没した。<参考文献>小川信『足利一門守護発展史の研究』,佐藤進一『室町幕府守護制度の研究』上

(伊藤喜良)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「斯波高経」の意味・わかりやすい解説

斯波高経 (しばたかつね)
生没年:1305-67(嘉元3-正平22・貞治6)

南北朝時代の武将。足利宗氏(一名家貞)の長男。通称孫三郎,官途尾張守,修理大夫。法号道朝。元弘の乱以来足利尊氏に従って戦い,1334年(建武1)越前守護となる。36年以来新田義貞の率いる北陸の南朝軍と連戦し,38年(延元3・暦応1)義貞を越前の藤島の戦で倒した。ついで若狭守護を兼ねたが,尊氏に疎まれて守護職を失い,足利直義党の有力者となったが,観応の擾乱(じようらん)中,尊氏に帰順して越前守護に復した。やがて将軍義詮の信任を得た細川清氏と対立し,54年(正平9・文和3)足利直冬党に応じて幕府に背いたが,翌年再び帰参し,清氏が放逐されると,62年(正平17・貞治1)幕府執事となった四男斯波義将を後見して,管領と称せられ,さらに五男義種を侍所頭人・山城守護,嫡孫義高を引付頭人とし,彼らをも後見して権勢を強めた。しかし佐々木道誉らの讒言により66年放逐され,翌年7月越前杣山城中に病没した。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「斯波高経」の意味・わかりやすい解説

斯波高経
しばたかつね

[生]嘉元3(1305)
[没]正平22=貞治6(1367).7.13. 越前
南北朝時代前期の武将。足利氏一門,家貞の子。足利尊氏の挙兵に従った。高師泰とともに延元2=建武4 (1337) 年南朝方新田義貞の拠点越前金崎城を落し,翌年義貞を敗死させ,北陸を足利氏の勢力下に収めた。尊氏,直義の対立時には直義に味方し,その没後は直冬党に加わったが,正平 11=延文1 (56) 年幕府に帰参した。正平 17=貞治1 (62) 年嫡子義将が執事に任じられると,その後見として職務を代行し,さらに侍所,引付頭人に子義種,孫義高を配し幕政に重きをなしたが,諸将の反感を買って失脚し,越前に逃れた。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「斯波高経」の解説

斯波高経
しばたかつね

1305~67.7.13

南北朝期の武将。宗氏の子。母は長井時秀の女。孫三郎。尾張守・修理大夫。法名玉堂・道朝。元弘の乱以来足利尊氏に属し,建武政権・室町幕府の越前国守護となる。1338年(暦応元・延元3)同国藤島で新田義貞を討ち,のち若狭国守護も兼任。観応の擾乱では足利直義(ただよし)方に属すが,やがて尊氏に帰順。その後足利直冬方に転じ,まもなく尊氏に帰参。尊氏死後,佐々木高氏(京極導誉(どうよ))と結んで執事細川清氏を失脚させ,62年(貞治元・正平17)四男義将(よしゆき)を執事とし,自分は後見して管領と称された。その後対立した導誉与党の勢力を削減しながら斯波氏の基盤を強化,その領国は越前・若狭・越中・山城4カ国に及ぶ。66年,導誉らの反撃で失脚,帰国して越前国杣山(そまやま)城にこもり,翌年病没。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「斯波高経」の解説

斯波高経 しば-たかつね

1305-1367 南北朝時代の武将。
嘉元(かげん)3年生まれ。足利氏の庶流。足利尊氏にしたがい,建武(けんむ)政権で越前守護となる。のち尊氏の挙兵にしたがい,建武5=延元3年新田義貞(にった-よしさだ)を越前藤島でたおす。尊氏没後,4男斯波義将(よしまさ)を執事に推し,幕府の実権をにぎる。佐々木高氏らの讒言(ざんげん)で将軍足利義詮(よしあきら)の追討をうけて越前にのがれ,貞治(じょうじ)6=正平(しょうへい)22年7月13日病没。63歳。通称は孫三郎。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の斯波高経の言及

【越前国】より

…道元の死後は相続権をめぐる三代相論が起こり,加賀に大乗寺を分立させる結果となって永平寺は衰退に向かった。 建武新政下の最初の守護は新田一族の堀口貞義であったが,1334年(建武1)9月までに足利一族の斯波高経に代わる。足利尊氏の離反によって新政が破れると,越前は南北両朝軍の戦場となった。…

【杣山城】より

…1337年(延元2∥建武4)瓜生保・重・照・義鑑房らの兄弟が脇屋義助を擁してここに拠り,敦賀金崎(かねがさき)城の新田義貞らに呼応して戦った話は《太平記》等に詳しく有名である。その後66年(正平21∥貞治5)には,室町幕府に背いた斯波高経がこの城に拠り,翌年城中に没し,1474年(文明6)には,台頭する朝倉氏と旧勢力の斯波氏,甲斐氏がここに争った。戦国時代には朝倉氏の家臣河合氏がここに拠ったと伝えるが,詳細は明らかでない。…

【藤島の戦】より

…1338年(延元3|暦応1)越前国吉田郡藤島(現,福井市)付近で行われた,南朝方新田義貞軍と足利方斯波高経(しばたかつね)軍との戦闘。この戦いで義貞は討死する。…

※「斯波高経」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

潮力発電

潮の干満の差の大きい所で、満潮時に蓄えた海水を干潮時に放流し、水力発電と同じ原理でタービンを回す発電方式。潮汐ちょうせき発電。...

潮力発電の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android