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斯波高経 しばたかつね

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

斯波高経
しばたかつね

[生]嘉元3(1305)
[没]正平22=貞治6(1367).7.13. 越前
南北朝時代前期の武将。足利氏一門,家貞の子。足利尊氏の挙兵に従った。高師泰とともに延元2=建武4 (1337) 年南朝方新田義貞の拠点越前金崎城を落し,翌年義貞を敗死させ,北陸を足利氏の勢力下に収めた。尊氏,直義の対立時には直義に味方し,その没後は直冬党に加わったが,正平 11=延文1 (56) 年幕府に帰参した。正平 17=貞治1 (62) 年嫡子義将が執事に任じられると,その後見として職務を代行し,さらに侍所,引付頭人に子義種,孫義高を配し幕政に重きをなしたが,諸将の反感を買って失脚し,越前に逃れた。

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百科事典マイペディアの解説

斯波高経【しばたかつね】

南北朝時代の武将。足利宗氏(家貞)の長男。通称孫三郎,官途尾張守,修理大夫元弘の乱以来足利尊氏に従って転戦,1334年越前守護となる。1338年南朝方の新田義貞を越前藤島(ふじしま)に討った。
→関連項目金崎城

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

斯波高経 しば-たかつね

1305-1367 南北朝時代の武将。
嘉元(かげん)3年生まれ。足利氏の庶流。足利尊氏にしたがい,建武(けんむ)政権で越前守護となる。のち尊氏の挙兵にしたがい,建武5=延元3年新田義貞(にった-よしさだ)を越前藤島でたおす。尊氏没後,4男斯波義将(よしまさ)を執事に推し,幕府の実権をにぎる。佐々木高氏らの讒言(ざんげん)で将軍足利義詮(よしあきら)の追討をうけて越前にのがれ,貞治(じょうじ)6=正平(しょうへい)22年7月13日病没。63歳。通称は孫三郎。

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朝日日本歴史人物事典の解説

斯波高経

没年:貞治6/正平22.7.13(1367.8.9)
生年:嘉元3(1305)
南北朝時代の武将。宗氏の子,または家貞の子とも伝えられている。母は大江時秀の娘といわれている。官途は尾張守,修理大夫。高経の初見は,北条高時十三回忌供養の折,足利孫三郎としてみえている。建武1(1334)年ごろに越前国に下り守護として活躍し始める。同年末より翌年1月にかけて,紀伊国の北条残党を討ち,中先代の乱のときには,足利尊氏と共に東国に下り,さらに上洛して建武政権を倒した。建武3/延元1年越前守護に復し,新田義貞と激戦を展開し,暦応1/延元3(1338)年閏7月,義貞を討ち取り,越前国を完全に掌握する。康永1/興国3(1342)年将軍足利尊氏と不和になり,兼任していた若狭守護とともに越前守護職も没収された。このため足利直義に近付き,観応の擾乱では直義派として行動するが,擾乱の末期に室町幕府方となり,越前守護も安堵された。文和3/正平9(1354)年足利直冬に呼応して,反幕府の兵を越前であげたが,直冬が没落すると,延文1/正平11年再度幕府に復帰した。延文3/正平13年尊氏が死去すると,佐々木導誉と結んで,ライバル細川清氏を追い落とし,貞治1/正平17年には4男の義将を幕府の執事となして,幕府内の実権を握り始めた。このため彼の3男で女婿である氏頼を推す導誉と激しく対立。幕府内の導誉派の勢力を削ぎ,幕政を完全に牛耳るようになったが,九州探題となった子の氏経の九州経営の失敗,分国越前における興福寺衆徒の強訴などを契機として,急速に勢力を失い,貞治5/正平21年足利義詮が高経の追討を命じたことにより,越前に逃れて,翌年没した。<参考文献>小川信『足利一門守護発展史の研究』,佐藤進一『室町幕府守護制度の研究』上

(伊藤喜良)

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世界大百科事典 第2版の解説

しばたかつね【斯波高経】

1305‐67(嘉元3‐正平22∥貞治6)
南北朝時代の武将。足利宗氏(一名家貞)の長男。通称孫三郎,官途尾張守,修理大夫。法号道朝。元弘の乱以来足利尊氏に従って戦い,1334年(建武1)越前守護となる。36年以来新田義貞の率いる北陸の南朝軍と連戦し,38年(延元3∥暦応1)義貞を越前の藤島の戦で倒した。ついで若狭守護を兼ねたが,尊氏に疎まれて守護職を失い,足利直義党の有力者となったが,観応の擾乱(じようらん)中,尊氏に帰順して越前守護に復した。

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大辞林 第三版の解説

しばたかつね【斯波高経】

1305~1367) 南北朝時代の武将。1337年新田義貞を越前金ヶ崎城に攻め、藤島で滅ぼす。幕府の実権を一時握るが、のち失脚。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

斯波高経
しばたかつね
(1305―1367)

南北朝時代の武将。孫三郎、尾張守(おわりのかみ)、修理大夫(しゅりのだいぶ)。法号道朝(どうちょう)。宗氏(むねうじ)(のち家貞か)の子。元弘(げんこう)の変以来足利尊氏(あしかがたかうじ)に従い、越前(えちぜん)守護となり、1338年(延元3・暦応1)新田義貞(にったよしさだ)を討ち滅ぼし、ついで越前を平定。一時若狭(わかさ)守護を兼ねたが、尊氏に冷遇されたため、観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)には足利直義(ただよし)に味方した。その後も足利直冬(ただふゆ)にくみしてふたたび背いたが、56年(正平11・延文1)幕府に帰順し、62年(正平17・貞治1)四男義将(よしまさ)を幕府執事(しつじ)に推して後見し、管領(かんれい)とよばれた。66年将軍義詮(よしあきら)に疑われて義将らとともに越前に逃れ、翌年7月13日同国杣山(そまやま)城(福井県南条郡南越前町阿久和)で病没した。なお、弟家兼(いえかね)は奥州探題、二男氏経(うじつね)は九州探題となった。[小川 信]

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世界大百科事典内の斯波高経の言及

【越前国】より

…道元の死後は相続権をめぐる三代相論が起こり,加賀に大乗寺を分立させる結果となって永平寺は衰退に向かった。 建武新政下の最初の守護は新田一族の堀口貞義であったが,1334年(建武1)9月までに足利一族の斯波高経に代わる。足利尊氏の離反によって新政が破れると,越前は南北両朝軍の戦場となった。…

【杣山城】より

…1337年(延元2∥建武4)瓜生保・重・照・義鑑房らの兄弟が脇屋義助を擁してここに拠り,敦賀金崎(かねがさき)城の新田義貞らに呼応して戦った話は《太平記》等に詳しく有名である。その後66年(正平21∥貞治5)には,室町幕府に背いた斯波高経がこの城に拠り,翌年城中に没し,1474年(文明6)には,台頭する朝倉氏と旧勢力の斯波氏,甲斐氏がここに争った。戦国時代には朝倉氏の家臣河合氏がここに拠ったと伝えるが,詳細は明らかでない。…

【藤島の戦】より

…1338年(延元3|暦応1)越前国吉田郡藤島(現,福井市)付近で行われた,南朝方新田義貞軍と足利方斯波高経(しばたかつね)軍との戦闘。この戦いで義貞は討死する。…

※「斯波高経」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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