日本大百科全書(ニッポニカ)「比叡山」の解説
比叡山
ひえいざん
京都市と滋賀県大津市との境界をなす山地。北は比良(ひら)山地から続く近江(おうみ)盆地の西側を画する地塁山脈で、琵琶(びわ)湖に面する東斜面と、京都盆地に面する西斜面は、ともに南北に走る断層崖(がい)をなしている。秩父中・古生層で構成されているが、南の大文字(だいもんじ)山との間には花崗(かこう)岩が広く露出している。山頂部には比較的平坦(へいたん)面が残り、東の大比叡(848メートル)と西の四明ヶ岳(しめいがたけ)(838メートル)の二峰に分かれる。山頂からは、東は琵琶湖を隔てて湖東、湖西方面、西は丹波(たんば)高地から京都市内を越えて南山城(みなみやましろ)や大阪方面まで望むことができる。四明ヶ岳には展望台などがある。琵琶湖国定公園の一部で、寺域のため自然状態が良好である。スギ、ヒノキ、モミなどの針葉樹が多く、またキツツキ、オオルリ、キビタキ、クロツグミ、サンコウチョウなど約80種の鳥が生息し、「比叡山鳥類繁殖地」として国の天然記念物に指定されている。
比叡山は古くから山岳信仰の対象となり、大山咋神(おおやまくいのかみ)などの山神が祀(まつ)られたといわれるが、785年(延暦4)最澄(さいちょう)(伝教(でんぎょう)大師)が入山して草庵(そうあん)を結んだのが天台宗総本山の延暦寺(えんりゃく)の始まりであり、比叡山は平安京北東の鬼門にあたり、護国鎮護の霊山として今日まで法燈(ほうとう)を伝えている。中世には三千坊と称される堂塔があり、多数の僧兵を擁した。1571年(元亀2)織田信長の焼打ちで一時衰微したが、豊臣(とよとみ)秀吉、徳川家康らによって再興された。
寺域は東塔(とうとう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)の三つの地区に分かれ、三塔16谷に点在する堂塔を総称して延暦寺という。中心は老杉に囲まれた東塔の根本中堂(こんぽんちゅうどう)(国宝)で、現在の建物は1642年(寛永19)に家光によって再建されたもの。東塔には根本中堂のほか、大講堂、戒壇(かいだん)院、阿弥陀(あみだ)堂がある。東塔の西にある西塔は人影もまばらな静寂の地。釈迦(しゃか)堂は1595年(文禄4)に秀吉が園城(おんじょう)寺金堂を移築したもので、比叡山最古の鎌倉時代の建造物。西塔にはこのほか常行(じょうぎょう)堂、法華(ほっけ)堂などの堂舎がある。釈迦堂から北へ4キロメートルの峰路(みねみち)とよばれる回峰行者(かいほうぎょうじゃ)のたどる尾根道を進むと奥比叡の横川に達する。横川は慈覚大師円仁(えんにん)によって開かれ、大師信仰の道場とされる幽邃(ゆうすい)の地である。横川中堂は1971年(昭和46)に再建された建物で、浄土思想の祖といわれる恵心僧都(えしんそうず)の住んだ恵心院もある。
比叡山への交通は、京都市左京区北白川から大津市に向かう山中越から分岐して根本中堂に達する比叡山ドライブウェイがあり、また大津市坂本からケーブルカーが、京都市左京区八瀬(やせ)からケーブルカー、ロープウェーが通じている。さらに根本中堂から横川を経て大津市堅田(かたた)の上仰木(かみおうぎ)で国道161号と結ぶ奥比叡ドライブウェイも開通した。
[織田武雄]
『景山春樹・村山修一著『比叡山』(NHKブックス)』▽『景山春樹著『比叡山寺』(1978・同朋舎出版)』