日本歴史地名大系 「蜂屋村」の解説 蜂屋村はちやむら 岐阜県:美濃加茂市蜂屋村[現在地名]美濃加茂市蜂屋町上蜂屋(はちやちようかみはちや)・蜂屋町中蜂屋(はちやちようなかはちや)・蜂屋町下蜂屋(はちやちようしもはちや)太田(おおた)村の北、山之上(やまのうえ)村の西にあり、蜂屋丘陵の中央を東西に蜂屋川が広い河谷平野を形成している。東西一里一〇町・南北一里半もある大村で、「濃州徇行記」や村明細帳では上蜂屋・中蜂屋・下蜂屋・伊瀬(いせ)の四村に分れている。中世蜂屋庄の名があるが、「濃陽志略」は富本庄と記す。弘治二年(一五五六)頃の斎藤義龍より桑原右近衛門尉(加治田城主佐藤紀伊守養子か)への宛行状に「蜂屋南北」「大村一方二方」が含まれている(「斎藤范可充行状」斎藤文書)。堂洞(どうぼら)城跡が村域北端の現加茂郡富加(とみか)町夕田(ゆうだ)地内にある。天正一五年(一五八七)の下蜂屋の天神神社の棟札によれば、金山(かねやま)城(現可児郡兼山町)の森家家老細野氏の榑木寄進を受け、五藤助六が社殿を修造している。同一七年片桐東市正の検地において蜂屋村は高三千二三九石余、うち三千石余が牧村兵部大輔知行蜂屋村、二三九石余が一柳伊豆守知行木野(この)村に分割されたという(寛政一二年「古溜池敷地争論蜂屋村返答書」蜂屋連絡所文書)。慶長郷帳に「蜂屋村三ケ村」とあり、幕府領で高三千石余、山年貢として上蜂屋村七石余・中蜂屋村一〇石余・大村三石余であった。正保郷帳では尾張藩領三千四一石余と瑞林(ずいりん)寺領一〇石で、内訳は田方二千三一四石余・畑方六九五石余・山年貢四一石余。ほかに尾張藩領の新開六九石余、内訳は田一石余・畑六八石余。寛永二一年(一六四四)の尾張藩の免定(蜂屋連絡所文書)によれば、村高は本田三千石余が上蜂屋村八六八石余・中蜂屋村一千一〇二石・下蜂屋村一千三〇石に分れ、新田は村中として六九石余、ほかに山年貢四一石余の定納米二一石余があった。明暦覚書によれば元和五年(一六一九)尾張藩領に編入され、同藩概高は本田高三千六七〇石・新田高四四石余。慶安四年(一六五一)の男女二千二六〇、馬一六八。同藩領以外に瑞林(ずいりん)寺領一〇石と賀茂大明神領五石がある。 蜂屋村はちやむら 滋賀県:栗太郡栗東町蜂屋村[現在地名]栗東町蜂屋手原(てはら)村の北西、野洲(やす)川と葉山(はやま)川に挟まれた平野部に立地。舒明天皇四年にこの辺りは物部氏の田荘とされたという(栗太志)。「和名抄」に載る栗太郡物部(もののべ)郷域に比定される。「興福寺官務牒疏」に金勝(こんしよう)寺二五ヵ別院の一として蜂屋寺がみえ、物部郷にあり物部山と号し、天平四年(七三二)勅願により隆尊開基、建久三年(一一九二)金勝寺龍蔵(りゆうぞう)院尊空が再建とみえる。永正二年(一五〇五)秋の紀年のある宇和宮(うわみや)神社本殿棟札写(近江栗太郡志)に「栗太郡物部郷蜂屋宇和宮上棟」とみえる。慶長検地では蜂屋・野尻阿(のじりあ)村として一千六〇一石余(正徳三年「郷村高付帳」中村文書)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by