朝日日本歴史人物事典 「蜂須賀忠英」の解説
蜂須賀忠英
生年:慶長16(1611)
江戸前期の大名,阿波徳島藩の2代藩主。幼名千松丸,のち阿波守を称した。諱は初め正鎮あるいは忠鎮。至鎮の長男。元和6(1620)年に襲封,同9年に将軍徳川秀忠の御前で元服して松平の称号を受ける。年少のため成人までの間,藩政は祖父の蓬庵(家政)が後見をした。忠英の時代には藩政機構も急速に整えられ地方支配も強化されたが,同時に譜代門閥層との軋轢も生じた。海部城番を勤めた家老の益田豊後長行は,藩官僚の代表格たる仕置役の長谷川越前貞恒と対立し,紛議は幕府に提訴されるに至った(「海部騒動」)。正保3(1646)年,幕府が益田の身柄を忠英に引き渡し,誅させたことによって事件は落着した。
(笠谷和比古)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報