朝日日本歴史人物事典 「蜂須賀至鎮」の解説
蜂須賀至鎮
生年:天正14(1586)
江戸前期の大名。阿波徳島藩の初代藩主。幼名千松丸。のち長門守,阿波守を称した。諱は初め豊雄また忠吉。蜂須賀家政の長男で徳島に生まれる。母は生駒家長の娘。8歳より豊臣秀吉に仕え,秀吉死後は細川忠興,加藤清正らと党派をなして石田三成を弾劾し,徳川家康に接近する。慶長5(1600)年1月,小笠原秀政の女子を家康養女として正室に迎える。同年6月,家康の会津討伐に従軍し,同9月の関ケ原の戦では東軍先鋒の一翼をになって戦功を立てる。同19年の大坂冬の陣では徳川方について戦い,博労ケ淵の合戦などで抜群の戦功を立て,将軍秀忠から感状ならびに松平の称号を与えられた。夏の陣では参陣途中で一揆の勢力と遭遇して合戦に参加しなかったが,戦後は淡路国を加増されて25万7000石を領知した。<参考文献>岡本由喜三郎,小出植男『峻徳公略伝』
(笠谷和比古)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報