改訂新版 世界大百科事典 「グスタブ2世」の意味・わかりやすい解説
グスタブ[2世]
Gustav Ⅱ Adolf
生没年:1594-1632
スウェーデン国王。在位1611-32年。グスタブ・アドルフとも呼ばれる。スウェーデンの公カールの長子として生まれる。父は,スウェーデン王兼ポーランド王ジグムント3世(アドルフの従兄)と争ってこれをスウェーデンから追い,摂政(1599),ついで王となり(1604-11),死後,17歳に満たぬアドルフに,スウェーデン王位とともにデンマーク,ロシア,ポーランドとの紛争・確執を残す。
デンマークとのカルマル戦争(1611-13)は劣勢で,イングランド王ジェームズ1世の調停をえてクネレドKnäredの和議を結ぶが,過酷な賠償を負う。対ロシア戦は優勢で,ストルボバStolbovaの和議(1617)は,スウェーデンにカレリアとインゲルマンランドをもたらし,またロシアはエストニア,リボニア請求権を放棄し,これによってロシアはピョートル大帝のときまでバルト海から締め出される。対ポーランド関係では,グスタブ2世はリボニアに侵入,リガを占領したが(1621),ジグムント王をはじめポーランド貴族の執拗な抗戦は,ドイツ(神聖ローマ帝国)皇帝の将軍ワレンシュタインの支援もあって頑強で,グスタブ2世はポーランド北部の占領を断念し,フランス宰相リシュリューの調停によってアルトマルクAltmarkの和議を結ぶ(1629)。これによってスウェーデンはリボニアをえたほか,ポーランド領沿岸諸都市の期限付き保有を認められた。対ロシア,ポーランド紛争とグスタブの政策は,スウェーデンのバルト沿岸支配(バルト帝国)をもたらした。この政策は,バルト海南岸のストラールズントをスペイン艦隊の基地とするワレンシュタインの構想と衝突し,グスタブ2世は三十年戦争への介入を決意し,ドイツ侵入を開始した(1630)。それまでの志願兵にかえて,1人の選抜兵を出す10人組を組織するとともに,機動性と集中力を重視し,そのため略奪を禁ずる厳格な軍紀を定め,軽量速射の砲の開発,軽装兵備および兵站部の分離をとりいれ,しばしば数倍する鈍重な敵を破った。とくに,1631年9月7日のブライテンフェルトBreitenfeldの戦における名将ティリー指揮下のカトリック軍にたいする勝利は,それまでカトリック・皇帝軍側に圧倒的に有利だった全戦局を転換させた。皇帝はワレンシュタインを再起用し,リュツェンLützenの会戦はスウェーデン軍が優勢だったが,グスタブ2世は戦死した。
グスタブ2世の政治,戦争は,絶対主義的な重商主義政策によるもので,バルト帝国の完成に対応して内政でも,宰相オクセンシェーナのもとに国制整備と商工業振興がはかられた。国会は不正規集会から,貴族,僧侶,都市民,農民の四部会をもつ身分制議会となり,行政は部門ごとの官庁をもった。知事をともなう州制度,日用品への間接税などはもとより不評であり,また国庫の充実を直接目的とした商工業振興策や都市・ギルド政策は全体として成功したとはいえない。ただルイ・ド・ジェールLouis de Geerをはじめとする数百家族のワロン人招致による都市イェーテボリの振興(建設は父カール9世)と製鉄業,銅山業の発展とは大きな成果を見た。
執筆者:熊野 聰
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報