ルーベンス(読み)るーべんす(英語表記)Peter Paul Rubens

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ルーベンス」の意味・わかりやすい解説

ルーベンス
るーべんす
Peter Paul Rubens
(1577―1640)

フランドルの画家。17世紀バロック絵画の代表者。ルーベンスは英語、ドイツ語読みで、フランドルではリュベンス。資産家の父が政治上の理由からドイツに逃れていたため、ウェストファリアジーゲンで1577年6月28日に生まれる。父の死後、10歳のとき母や兄とともに故郷アントウェルペンに戻り、ここでカトリック教徒としての教養を身につけるためラテン語学校に入ったが、3年在籍ののち、ラングレ伯未亡人の小姓となった。しかし、画家としての志向がようやく芽生えてきたのもこのころで、まず91年にウェルヘークトの門に、ついでアダム・ファン・ノールト(1562―1641)、さらにオットー・ファン・ウェーン(1556―1629)のアトリエに入った。独立の画家としてアントウェルペンの画家組合に登録されたのは98年、21歳のときである。

 とはいえ、彼もまた当時の青年画家の例に漏れず、イタリア留学に強い希望をもち、1600年ついに実現した。そして約8年間、おもにマントバやローマにおいて古代美術やルネサンスの巨匠たちを学び、あるいは当時のカラッチ派や新しい自然主義を打ち出したカラバッジョの影響も受けて成熟し、名声もしだいにあがって祭壇画などを描いている。一方、マントバ公の知遇を得て、その使節としてスペインに赴くなど、多彩に充実した生活であった。08年の秋、母の病気の知らせでイタリアを離れた。母の死にはまにあわなかったが、彼の力量はすでによく知られ、フランドル第一の画家として故国に迎えられた。翌年、総督アルベルト公の宮廷画家となり、同年秋、名門の娘イサベラ・ブラントと結婚。それ以後は日ごとに高まる名声と多くの弟子に囲まれて、ルーベンス独特の豊麗・壮大な芸術を展開させていった。

 彼は歴史画宗教画をはじめ、あらゆるジャンルを題材としている。しかも、どのような主題を描こうと、そこに生の喜びがあふれ、豊潤と壮麗が一大シンフォニーを奏でている。そのような彼の最大のモニュメントは、1621~25年にパリのリュクサンブール宮殿大広間のために描いた21面の大壁画『マリ・ド・メディシスの生涯』(現ルーブル美術館)である。ここにはルーベンス芸術のすべての特質が、そしてバロック絵画の集大成がみいだされよう。その後、彼の多彩な芸術活動はいよいよ円熟し、一方、外交官としても活躍し、その芸術と人柄の豊かさ、温かさによって、ヨーロッパ各国の王侯から多大の尊敬愛顧を得た。26年には妻に先だたれたが、30年末には若く健康で美しいエレーネ・フールマンとの再婚に恵まれ、晩年の10年間は痛風に悩まされたとはいえ、おそらく歴史上もっとも恵まれた画家として、幸福に満ち足りた生涯を送った。40年5月30日アントウェルペンに没。

[嘉門安雄]

『ボードワン著、黒江光彦他訳『ルーベンス』(1978・岩波書店)』『嘉門安雄解説『大系世界の美術16 フランドルの絵画』(1972・学習研究社)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ルーベンス」の意味・わかりやすい解説

ルーベンス
Rubens, Peter Paul

[生]1577.6.28. ジーゲン
[没]1640.5.30. アントウェルペン
フランドルの画家,外交官。アントウェルペンの法律家の子。 A.ノールト,O.フェーンについて絵を学んだ。 1598年アントウェルペン画家組合員となり,2年後イタリアに留学,主としてベネチア,ローマに滞在し,ティントレット,レオナルド・ダ・ビンチ,M.カラバッジオの作品を研究。 1600年マントバ公に仕えたが,08年母の死去のため帰国。 09年ブリュッセルのアルベルト大公とイサベラ大公妃の宮廷画家となり,アントウェルペン大聖堂に『十字架立て』 (1611) ,『キリストの降架』 (11~14) を制作。次いでリュクサンブール宮を飾った 21面の連作『マリー・ド・メディシスの生涯』 (22~25,ルーブル美術館) を制作,豪華絢爛なバロック絵画の代表的画家となった。また 21~30年,外交使節として活躍し,ブリュッセル,パリ,マドリード,ロンドンを訪れ,35年にアントウェルペンに定住。彼の作風は感覚的,官能的で,筆触の速い明るい燃えるような色彩で描いた神話画,宗教画,歴史画,肖像画,風俗画,風景画は 2000点をこえる。 (→バロック美術 , フランドル美術 )

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