日本歴史地名大系 「蠣瀬村」の解説 蠣瀬村かきぜむら 大分県:中津市蠣瀬村[現在地名]中津市蛎瀬(かきぜ)中津城下の東郊にあり、豊後(ぶんご)町の東の外れに蠣瀬口勢溜(かきぜぐちせいだまる)と御門、門外の町支配蠣瀬と接する。北は大塚(おおつか)村、南は蛎瀬川を隔てて中殿(なかどん)村。「中津称呼考」に「島田村之東北、牆流而積石土高地、而人家或呼之曰牆瀬、今蠣瀬村是矣」とあるが、村名は海岸の干潟の名称に由来するのであろう。嘉暦三年(一三二八)六月日の池永重頼解状(野中文書)によれば「御馬所検校藤原能範」の裏書に「かきせの又二郎」とある。蠣瀬又次郎入道証阿は貞和六年(一三五〇)一一月日「下毛郡太(ママ)家郷内名田畠屋敷塩屋等事」の安堵を足利直冬に申請している(「蠣瀬証阿安堵申状」蠣瀬文書)。永禄元年(一五五八)一一月一五日の蠣瀬鎮忠申状(同文書)では「一所拾町壱段廿代 吉延・久則・秋成名内八町廿代、持留居屋敷分」とあり、所領の規模が推定できる。蠣瀬氏の本貫地は久則(ひさのり)名であり、塩屋が含まれていることから、久則名が蠣瀬の浜辺に所在していたことがわかる。また薦(こも)社神官一松氏が所持していた「かきせのうし丸名内しんかいの□しのよ□」の存在が知られる(明徳五年三月三日「うしかミ六郎田地去状」永弘文書)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by