中津城下(読み)なかつじようか

日本歴史地名大系 「中津城下」の解説

中津城下
なかつじようか

[現在地名]中津市中津・新天神町しんてんじんまち

中津城はもと山国やまくに川の本流中津川を背に三角形に設計され、武家屋敷は概して城の南側に、町家は内堀の東側に配置され、その東の外堀沿いにてら町を置いた。武家屋敷町はおおむね本丸より南へ遠くなるほど小禄となり、屋敷も狭くなった。すなわち三の丸さんのまる(現三ノ丁。家老クラス)片端かたは町・なかの丁(俗称殿町。上級武士)金谷かなや(本町・西堀端・東堀端・南ノ丁・中ノ丁・西ノ町・上ノ丁・森ノ丁・社長屋・古金谷・山ノ神。下級武士)などで、本丸の北にも、北門きたもん通・留守居るすい町・ゆみ町・矢場やば舟頭せんど町・水主かこ町・船場せんば町・鷹部屋たかべやふくろ町・新堀しんぼり餌指えさし町・仲間ちゆうげん町・鷹匠たかじよう町・やました稲堀いなぼり江戸えど(枝町)などの武家屋敷町が、延享元年(一七四四)頃には確認されるという(中津歴史)。なお享保二〇年(一七三五)藩士屋敷の幅員が定められ、大身八畝、給人五畝、供小姓三畝半、小役人三畝、組外二畝半、組通り二畝、仲間一畝半となっている(同書)。町家のほうは大手門の近くからきよう町・姫路ひめじ町・古博多ふるはかた町・こめ町・新博多しんはかた町・もろ町・新魚しんうお町・古魚ふるうお町・ふな町・しお町・さくら町・豊後ぶんご町・堀川ほりかわ町・角木つのぎ町と、島田しまだ口門外に新博多町支配出小屋でごや・同町支配萱津鍛冶屋かやづかじや町、蠣瀬かきぜ口門外に米町支配蠣瀬鍛冶屋町・同町支配蠣瀬出かきぜで町・塩町支配蠣瀬新町、舟宮ふなみや口門外に姫路町支配角木出つのぎで町があった。寺町以外にも、神社仏閣は外堀付近に自性じしよう寺・義氏よしうじ社・六所ろくしよ宮などがあった。

中津の地名について「下毛郡誌」は「応永戦記にも中津江太郎と云ふ者見え、大家氏系図には、孝範、中津江太郎判官と云へる由見ゆ。然れば、中津の称呼はたとひ中津宮の神名に因らずとするも尚南北朝の比より唱へ来りしや明かなり、奥羽観蹟聞老誌には、豊前の人にて、中津川義氏と云ふあつて、花山院の衛士なりしとぞ、是も聞き捨て難き説なり」と従来の諸説をまとめている。年未詳八月二一日の永弘国忠書状(永弘文書)に中津川とみえ、永正年間(一五〇四―二一)宮時みやとき今吉いまよし名内の田を中津川の者が耕作していた。同文書にはこの頃、本自見ほんじみふか町二反の作人彦五郎や久持ひさもち名四反の作人常(恒)重太郎四郎の名がみえる。中津川に恒重つねしげ名の存在が推定される。某覚書案(到津文書)によれば、永禄一二年(一五六九)閏五月毛利軍が侵入し、「同廿二日至中津河警固舟百ソウ計、くつ河・小今井・中津河・カキせ東浜」の集落を焼払った。

近世に入って中津と称せられるが、史料上では慶長一八年(一六一三)にみえる(「宇佐宮脇殿三社竪柱上棟御神事入目目録」小山田文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の中津城下の言及

【中津[市]】より

…また,北原(きたばる)の原田神社では毎年2月4日に北原人形芝居が演じられる。【勝目 忍】
[中津城下]
 黒田孝高は入部翌年の1588年(天正16)に山国川河口の中津に入り城郭と城下町の建設に着手した。しかし本格的な工事は1600年(慶長5)に始まる細川氏の時代からであった。…

※「中津城下」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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