日本歴史地名大系 「西宇村」の解説 西宇村にしゆうむら 徳島県:三好郡山城町西宇村[現在地名]山城町西宇(にしう)吉野川の小歩危(こぼけ)峡左岸に位置し、東対岸は川崎(かわさき)村(現池田町)、南東は祖谷(いや)山、南は上名(かみみよう)村。集落は急傾斜地に散在する。土佐国境まで三里余、伊予国境まで二里、大西池田(おおにしいけだ)(現池田町)から当地まで六里半(明暦三年「三名道筋覚」御大典記念民政資料)。もとは山城谷のうち。のち独立し、同時に独立した上名村・下名村と合せ三名(さんみよう)と称された。慶長期(一五九六―一六一五)のものと推定される国絵図に西宇とみえる。正保国絵図には山城谷のうち西宇村、寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳では山城谷大野(おおの)村の枝村として村名がみえる。三名が山城谷から分村独立した時期は不詳であるが、元和九年(一六二三)の検地後ともいう(郡村誌)。 西宇村にしうむら 徳島県:那賀郡木頭村西宇村[現在地名]木頭村西宇南宇村の西、那賀川上流両岸の山間部に位置する。海部(かいふ)郡木頭村の枝村で木頭上山(きとうかみやま)村に含まれる。寛永五年(一六二八)の木頭上山村検地帳(木頭村誌)には西宇村が書上げられ、高三二石余、田二町二反余・畑二町八反余・伐畑二町六反余、茶園五三三坪、漆一五九本、かじ三三六株。正保国絵図では「木頭村之内西宇村」とみえる。寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳にも木頭村の項に枝村として村名がみえる。宝永四年(一七〇七)の伐畑検地帳(木頭村誌)では伐畑七町六反余、高六石余。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by