木頭村(読み)きとうそん

日本歴史地名大系 「木頭村」の解説

木頭村
きとうそん

面積:二三三・四四平方キロ

県の南西端、郡の最西端に位置し、ほぼ正方形に近い形をしている。東は上那賀町、北は木沢きさわ村・三好みよし東祖谷山ひがしいややま村、西は高知県香美かみ物部ものべ村、南西は同県安芸市、南は同県安芸郡馬路うまじ村、海部かいふ海南かいなん町と接する。村域は四国山地のほぼ中央にあり、北西部には北にジロウギュウ(一九二九メートル)、西の高知県境に石立いしだて(一七〇七・七メートル)など標高一七〇〇メートル以上の山々がそびえ立つ。那賀川の最上流地域であり、村域のほぼ中央を那賀川が東流し、みなみ川をはじめ多くの支流が那賀川に流れ込んでいる。那賀川に沿って国道一九五号が東西に走り、人口もほぼこの谷筋に集中している。北部を東西につるぎ山スーパー林道が走る。北西部の高の瀬こうのせ峡は紅葉の名所となっており、剣山つるぎさん国定公園に含まれている。すけには那賀川小見野々こみののダムがある。

原始・古代期については不明であるが、北川きたがわの八幡神社の社地から出土したと伝えられる石棒(直径一〇センチ・長さ七七センチ)があり、地元では「でけ仏」とよばれている。元応二年(一三二〇)八月日の下鴨社造替要木注文覚書写(徴古雑抄)にみえる「那賀庄大由郷杣」をオユゴウと読ませ、当地の折宇おりうをさすという説がある。近世は海部郡に属し木頭上山きとうかみやま村、または上木頭かみぎとう奥木頭おくぎとうともよばれた。正保国絵図によれば木頭村高六〇〇石とあり、枝村二四ヵ村のうち村域の村は北川村たいら村・上折宇村・和無田わむだ村・西宇にしう村・南宇村・出原いずはら村・大久保おおくぼ村・阿世か野あぜかの村・宇井内ういのうち村・てらうち村の一一ヵ村と思われる。

木頭村
きとうむら

[現在地名]木沢村木頭

那賀川支流坂州木頭さかしゆうきとう川左岸山間に位置する。東は拝宮はいぎゆう村・日真ひま(現上那賀町)、南は平谷ひらだに(現同上)と接し、西方に飛地がある。康正三年(一四五七)一一月二二日の忌部政重預ケ状(木頭湯浅文書)には差出に「木頭 忌部政重」とみえ、当地の忌部政重はいったん没収した谷俣尾尻山の下地を当山衛門に再度預けている。

天正一七年(一五八九)一一月一三日の那西郡之内仁宇谷北俣分木頭村検地帳(湯浅家文書)が残っており、拝宮村とどろ谷を含み、田一町五反余・畑一町一反余・居屋敷一反余で合計二町八反余、高二三石余。慶長二年(一五九七)の分限帳では山田彦八郎知行分の那東なとう(那西か)北俣きたまた分に含まれ、同分と仁宇谷本郷にうだにほんごう分との合計高二千三〇〇石余の一部と考えられる。正保国絵図、寛文四年(一六六四)郷村高辻帳天保郷帳などには記載がなく、長安ながやす(現上那賀町)の高に含まれるとみられる。文化一〇年(一八一三)の高都帳では高二四石余。「阿波志」では水陸田三町五反余。

木頭村
きとうむら

那賀川上流の両岸、標高一〇〇〇メートル級の山々が並ぶ山間村落で、海部かいふ郡の数多くの枝村からなる村の総称。天正一三年(一五八五)と推定される九月二九日の蜂須賀家政書状写(民政資料)によると、家政は近々土佐へ出勢するので木頭中の者を召連れて案内するよう近藤助左衛門に命じている。慶長期(一五九六―一六一五)のものと推定される国絵図には「おいの木頭」と「木頭谷」がみえる。正保国絵図によると木頭村高六〇〇石とあり、木頭のうちとして北川きたがわ村・たいら村・上折宇かみおりう村・宇井内ういのうち村・阿世か野あぜかの村・西宇にしう村・和無田わむだ村・南宇みなみう村・出原いずはら村・すけ村・てらうち村・大久保おおくぼ村、白石しらいし村・上海川かみかいかわ村・御所谷ごしよだに村・成瀬なるせ村・平谷ひらだに村・大殿おおとの村・川俣かわまた村・古屋ふるや村・谷口たにぐち村・下海川村(現上那賀町)、北名村・村吉村の二四ヵ村が記載されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報