日本歴史地名大系 「名村」の解説 名村あしなむら 神奈川県:横須賀市名村[現在地名]横須賀市芦名・芦名一―二丁目東は長坂(ながさか)村、西は秋谷(あきや)村、南は佐島(さじま)村、北は下平作(しもひらさく)村と接する。蘆名・葦名とも記した。現在の大楠(おおぐす)小学校所在地を御館(みたち)とよび、三浦義継の子為清がここに館を構え蘆名氏を名乗ったと伝える。また三浦一族の佐原盛連の第三子光盛が建長年間(一二四九―五六)当地に住み、蘆名氏を名乗ったという(新編会津風土記)。永享六年(一四三四)六月五日の沙弥聖喜(蘆名盛政)所領所職譲状写(県史三)に、不知行地として「三浦郡葦名郷」がみえる。 名村みようむら 埼玉県:羽生市名村[現在地名]羽生市名西は利根川沿いに堤(つつみ)村に続く。「明」と表記されることもあり、現鷲宮(わしみや)町鷲宮(わしのみや)神社の文禄四年(一五九五)八月付棟札に「発戸道原明堤此郷何三分一」とみえ、同神社領があった。田園簿によると幕府領で、田高一九〇石余・畑高三一四石余、ほかに野銭永一五七文。享保一七年(一七三二)と考えられるが下野足利藩領となり、幕末まで続く(改革組合取調書など)。宝暦五年(一七五五)の同藩領村々明細帳(安田家文書)によると承応三年(一六五四)幕府領代官の検地があった。 名村みようむら 愛媛県:越智郡吉海町名村[現在地名]吉海町名大島の南部にあり、姫政(ひめまさ)山と亀老(きろう)山(大亀山(おおきやま)とも)の麓の緩斜面に集落が散在する。土地は肥沃で古くから開発が行われ、各所に弥生期の遺物や古墳がある。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の越智郡の項に「名村 日損所、野山有、林有」とみえ、村高五六八石七斗は大島第一である。寛永一三年(一六三六)の名村検地帳では田畑合わせて五九町五反。元禄二年(一六八九)の名村地坪帳では、下田水(しただみ)にも三町七反の田畑をもち、新田改帳によると、同三年・文政三年(一八二〇)にも開発をしている。峠を越えた南部海岸の風無(かぜなし)・江越(えごし)、沖浦(おきうら)(南浦)なども当村民の開発である。 名村なむら 京都府:綴喜郡宇治田原町名村[現在地名]宇治田原町大字南(みなみ) 名村犬打(いぬうち)川下流の平野につくられた村のうち、東南に位置し、西は符作(ふづくり)村、北は切林(きりばやし)村に接する。村の南、犬打川西岸に鎮座する御栗栖(みくるす)神社(一宮神社)は、この地が朝廷の御栗栖であったことにちなむ社とされ、神社北側の地一帯は古く御栗栖園であったと伝える。元和九年(一六二三)禁裏新御料となった田原郷一五ヵ村の一で、享保一四年(一七二九)山城国高八郡村名帳に村高二〇六・一七石とある。明治六年(一八七三)の人口は一九八(岩本区有文書)。 名村なむら 兵庫県:赤穂郡上郡町名村[現在地名]上郡町八保(やほ)別名(べつみよう)村の北、八保盆地の北東部に位置する。古山陽道が山野里(やまのさと)村から梨(なし)ヶ原(はら)川沿いに梨原(なしがはら)村へ通じる。大皆坂(おおかいざか)村を経て山伏(やまぶし)峠越で、また行頭(ゆきとう)村を経て備前国へ至る山道が通じる。江戸時代の領主の変遷は下栗原(しもくりばら)村に同じ。正保郷帳に村名がみえ、田高一四五石余・畠高七四石余。宝永三年(一七〇六)の名村組指出帳(花岳寺文書)によれば、高二四六石余、家数六七・人数三七五(うち商人一・杣取一・紺屋一・馬喰二・鉄砲細工一・医者一・道心一・尼八)、牛二九・馬五、年貢米は竹万(ちくま)村河岸へ陸送し、加里屋(かりや)(現赤穂市)御蔵へ高瀬舟で積下げた。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by