西川正休(読み)にしかわまさよし

日本大百科全書(ニッポニカ) 「西川正休」の意味・わかりやすい解説

西川正休(にしかわまさよし)
にしかわまさよし
(1693―1756)

江戸時代の天文・暦学者。西川如見(じょけん)の第2子として長崎に生まれる。父に従い家学を受け、その学に精通した。江戸に出て天文学を講じたが、聴く者その言に服さない者はなかったという。8代将軍徳川吉宗(よしむね)にその天学の才を認められ、幕府御家人(ごけにん)に取り立てられて暦術測量御用を勤め、1747年(延享4)天文方に任ぜられた。1750年(寛延3)京都梅小路天文台で改暦の事業に従うが、土御門泰邦(つちみかどやすくに)と折り合い悪く、江戸に召還され、測量同僚との交際も禁ぜられ、宝暦(ほうれき)6年6月失意のうちに病死した。游子六(ゆうしろく)の『天経或問(わくもん)』に訓点を施し、またこれと合刻した『大略天学名目鈔(しょう)』がある。前者は当時の日本の天文学に大いに益するところがあった。

[渡辺敏夫]


西川正休(にしかわせいきゅう)
にしかわせいきゅう

西川正休

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朝日日本歴史人物事典 「西川正休」の解説

西川正休

没年:宝暦6.5.1(1756.5.29)
生年元禄6.11.14(1693.12.10)
江戸中期の天文家。長崎の文化人として著名な西川如見の子で忠次郎と称した。『天経或問』の訓点本とその付録『大略天学名目鈔』を著し西洋天文学をわが国に広めるのに大いに貢献した。江戸に出て天文学を講義して暮らしていたが,元文5(1740)年江戸幕府御家人として召し出され10人扶持を給されて寺社奉行配下に属した。その後江戸城内吹上御苑において暦術測量御用を勤めた。当時幕府は改暦を意図していたが,天文方は未熟な渋川則休ひとりであったので則休を指導補佐するため,正休を俸禄200俵で延享4(1747)年1月天文方に登用した。寛延3(1750)年改暦事業につき京都の土御門泰邦と折衝するため上京した。宝暦1(1751)年天文・暦学に理解のあった将軍徳川吉宗の死後,算学に暗く実務に乏しい正休は土御門とも不仲になり,結局は改暦事業に失敗して江戸に召還され,仕事も取り上げられて不遇のうちに世を去った。

(内田正男)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「西川正休」の解説

西川正休 にしかわ-まさよし

1693-1756 江戸時代中期の天文家。
元禄(げんろく)6年11月14日生まれ。西川如見(じょけん)の次男。父に家学をまなび,幕府に出仕して暦術測量御用をつとめる。延享4年天文方となるが,宝暦の改暦をめぐって京都の陰陽頭(おんようのかみ)土御門泰邦(つちみかど-やすくに)との折り合いわるく,免職となった。宝暦6年5月1日死去。64歳。肥前長崎出身。通称は忠次郎。著作に「大略天学名目鈔」など。

西川正休 にしかわ-せいきゅう

にしかわ-まさよし

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「西川正休」の解説

西川正休 (にしかわせいきゅう)

生年月日:1693年11月14日
江戸時代中期の天文家
1756年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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