宝暦(読み)ホウレキ

デジタル大辞泉 「宝暦」の意味・読み・例文・類語

ほうれき【宝暦】

江戸中期、桃園天皇後桜町天皇の時の年号。1751年10月27日~1764年6月2日。ほうりゃく。

ほうりゃく【宝暦】

ほうれき(宝暦)

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精選版 日本国語大辞典 「宝暦」の意味・読み・例文・類語

ほう‐れき【宝暦】

[1] 〘名〙 天子天皇の年齢。宝算
※凌雲集(814)渤海入朝〈大伴氏上〉「自従明皇御宝暦、悠悠渤海再三朝」 〔隋書‐煬帝紀〕
[2] 江戸時代、桃園・後桜町両天皇の代の年号。寛延四年(一七五一)一〇月二七日に改元、宝暦一四年(一七六四)六月二日に至って次の明和となる。将軍徳川家重・家治の時代。出典は「貞観政要‐誠信」の「恭承宝暦、寅奉帝図」。

ほうりゃく【宝暦】

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日本の元号がわかる事典 「宝暦」の解説

ほうれき【宝暦】

日本の元号(年号)。江戸時代の1751年から1764年まで、桃園(ももぞの)天皇、後桜町(ごさくらまち)天皇の代の元号。前元号は寛延(かんえん)。次元号は明和(めいわ)。1751年(寛延4)10月27日改元。天災の凶事を断ち切るために行われた(災異改元)。『貞観政要(じょうがんせいよう)』を出典とする命名。宝暦年間の江戸幕府の将軍は、徳川家重(いえしげ)(9代)、徳川家治(いえはる)(10代)。第8代将軍の徳川吉宗(よしむね)は1745年(延享2)に隠居して嫡男の家重に将軍職を譲ったが、実権は引き続き大御所となった吉宗にあった。しかし、その吉宗も1751年(宝暦1)に死去し、大御所政治も終わりを告げた。家重は側近大岡忠光(ただみつ)を重用して、側用人(そばようにん)を復活させた。家重は忠光の死後の1760年(宝暦10)に嫡男の家治に将軍職を譲り、その翌年に死去している。家治は田沼意次(おきつぐ)を側用人としたが、次第に政治から遠ざかり、意次を老中として幕政を任せるようになった。◇「ほうりゃく」とも読む。

ほうりゃく【宝暦】

⇒宝暦(ほうれき)

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