江戸中期の長崎の天文学者。名は忠英,通称は次郎右衛門。如見のほか求林斎,金梅庵,淵梅軒とも号した。商家の生れ。儒学を南部草寿に学ぶ。小林義信らの長崎流天文学を受け継ぎ,中国の天文学に西洋天文学を加味した研究を進め,1719年(享保4)将軍徳川吉宗に招かれ下問に答えた。天文学概説書《天文義論》(1712)は儒教的自然観をとりながらも,天を〈命理の天〉と〈形気の天〉に分け,実証主義的思考を示し,《日本水土考》(1720)では日本を地球上の中華とみる見地を展開して,儒者的な中国崇拝観からの移行を示した。1695年版《華夷通商考》を改正した《増補華夷通商考》(1708)は通商的観点の世界地誌で,海外事情の普及に大きく貢献した。また《町人囊(ぶくろ)》《百姓囊》で町人百姓の心得や教訓を説き,《長崎夜話草》など啓蒙書も多い。《西川如見遺書》18冊(1898-1907)がある。
執筆者:有坂 隆道
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
江戸前期の天文地理学者。長崎の人。名は忠英、求林斎と号す。生糸の鑑定を行う地役人(じやくにん)の家に生まれる。20余歳にして学に志し、1672年(寛文12)京都の儒者南部草寿(そうじゅ)(?―1688)について学ぶ。天文暦数を好み、先儒の諸説やヨーロッパ渡来の説を参酌して発明するところ多く、これを書として家に蔵した。50歳で家業を長子に譲り隠居し、天文暦算の研究に励んだ。72歳のとき将軍徳川吉宗(よしむね)の招きに応じ、江戸に赴き天文学の質問に答えた。長崎に帰り、享保(きょうほう)9年、77歳で没した。墓は長崎市長照寺にある。『天文義論』『両儀集説』『天文精要(怪異辨断(べんだん))』『天文和歌註(ちゅう)』『華夷(かい)通商考』『日本水土考』『長崎夜話草』『町人嚢(ちょうにんぶくろ)』その他多くの著書がある。
[渡辺敏夫]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
1648~1724.8.10
江戸前・中期の天文・地理学者,町人思想家。名は忠英,如見は号,求林斎とも号す。長崎生れ。儒学を木下順庵門下の南部草寿(そうじゅ)に,南蛮系の天文・暦学を林吉左衛門らに学ぶ。1719年(享保4)将軍徳川吉宗に招かれ江戸に赴き,下問をうけた。著書も多く,「天文義論」「両儀集説」「増補華夷通商考」「日本水土考」など天文・暦学・地理学関係のものは,鎖国下における合理的認識の先駆に位置づけられる。一方,「町人嚢(ぶくろ)」「百姓嚢」など町人や百姓の心得を平易に説いた著書は,元禄期の庶民の社会意識を示している。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…江戸中期の長崎の天文家西川如見の著。1712年(正徳2)に2巻2冊本として出版された。…
…5巻。西川如見(忠英)の著。1720年(享保5)に成る。…
※「西川如見」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新