土御門泰邦(読み)つちみかどやすくに

日本大百科全書(ニッポニカ) 「土御門泰邦」の意味・わかりやすい解説

土御門泰邦
つちみかどやすくに
(1711―1784)

江戸中期の陰陽(おんみょう)家。姓は安倍(あべ)氏。陰陽家安倍晴明(あべのせいめい)の裔(えい)泰福(やすとみ)の末子。1722年(享保7)陰陽頭(かみ)、1746年(延享3)治部卿(きょう)、1754年(宝暦4)陰陽頭、1756年天文博士(はかせ)、1759年陰陽頭、1771年(明和8)兵部(ひょうぶ)卿を歴任。墓は京都市下京区梅小路梅林寺にある。8代将軍徳川吉宗(よしむね)は西洋流天文学による改暦を行わんとして西川正休(まさよし)をあげて天文方に任じ、その準備も進んだので、京都の陰陽頭泰邦に改暦を諮った。その結果、京にて再三測験のうえで行うこととなり、天文方西川、渋川光洪(みつひろ)(1723―1771)を遣わして京都八条にある土御門邸の梅小路天文台で観測を始めた。泰邦と西川の間の関係が思わしくなく、吉宗も没して西川は退けられ、結局は泰邦の一存による「貞享暦(じょうきょうれき)」のわずかの修正によって、1754年『暦法新書』16巻が完成、10月16日泰邦より奏進して19日改暦宣下があり「宝暦甲戌元暦(こうじゅつげんれき)」の名を賜り、翌年から「宝暦暦」が施行された。

[渡辺敏夫]

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朝日日本歴史人物事典 「土御門泰邦」の解説

土御門泰邦

没年:天明4.5.9(1784.6.26)
生年正徳1.8.8(1711.9.20)
江戸中期の陰陽道宗家,暦法家。土御門泰福の子。家職である陰陽頭を継ぎ,寛延3(1750)年に従三位。渋川春海の貞享改暦によって幕府天文方に掌握された改暦・編暦権の奪回を目指し,西川遠里などの暦法家を配下に抱え,西洋天文学の導入にも努め,元文2(1737)年には『天経或問正義』を著している。徳川吉宗の発議による宝暦改暦に際して,幕府天文方西川正休の新暦法稿本を酷評して,改暦の主導権を握った。宝暦4(1754)年の改暦は泰邦の意見により推進された。宝暦暦法を記した『宝暦暦法新書』『新暦提要簡法』などの著書がある。<参考文献>広瀬秀雄「宝暦の改暦について」(村山修一他編『陰陽道叢書』3巻)

(脊古真哉)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「土御門泰邦」の解説

土御門泰邦 つちみかど-やすくに

1711-1784 江戸時代中期の陰陽師(おんようじ)。
正徳(しょうとく)元年8月8日生まれ。土御門泰福(やすとみ)の子。陰陽頭(かみ),治部卿(じぶきょう),天文博士,兵部卿をつとめる。幕府天文方西川正休(まさよし)をしりぞけて改暦をすすめ,宝暦4年「暦法新書」を完成。翌年から「宝暦暦」が施行された。天明4年5月9日死去。74歳。京都出身。

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367日誕生日大事典 「土御門泰邦」の解説

土御門泰邦 (つちみかどやすくに)

生年月日:1711年8月8日
江戸時代中期の暦学者;公家
1784年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の土御門泰邦の言及

【宝暦暦】より

…1755年(宝暦5)より97年(寛政9)まで施行された暦法。撰者は土御門泰邦である。徳川吉宗の性急な改暦意図に沿うためという政治的な動機で行われた改暦により施行された暦法である。…

※「土御門泰邦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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