西長野村
にしながのむら
南東流する雫田川、日三市川を集めた入見内川の狭い河岸段丘上にある。西は沢奥の集落古米沢を通り、細越峠から稲沢村(現協和町)、北は山谷川崎村、南は丘陵を越えて八割村・雲然村に接する。河岸段丘上から縄文前期から晩期にわたる土器片や石器類が採集される。
天正一八年(一五九〇)戸沢領の検地帳に支郷中泊村の名があり、田高一千一六五石五斗六升、屋敷・畑高二二石二斗、合計一千一八七石余とある(「出羽国仙北之内北浦郡御検地目録帳」戸沢文書)。同期の「仙北御在城の節御支配、仙北領村付帳の写」(色部文書)の「にしなかの郷」は当村に比定され、そのほか支郷は享保八年(一七二三)の仙北郡郡村本村支村御高調帳(秋田県庁蔵)の支郷と対照される。
西長野村
にしながのむら
[現在地名]豊田町大字西長野
木屋川西岸の村で、北はその支流江良川を境に江良村・手洗村、南は城戸村、東は木屋川を境に東長野村に接する。長府藩領で豊浦郡豊田筋に属した。
慶長一五年(一六一〇)の検地帳は城戸・長野・江良の合石で総高九〇〇石余を記す。正保四年(一六四七)の西市町の紅粉屋家文書に「西東共ニ長野」とみえる。幕末の豊浦藩明細書に田八町余、二七〇石、畠四町余、四四石とある。全村蔵入。「地下上申」には村としての記載はないが、城戸村の中に「長野と申は、往古此所野原にて有之候」と、華山と木屋川に挟まれた南北に長い平地である旨を記し、「安野山何某と申仁此所に居住して田畠を掘開キ、夫より長野と申習候、安野山と申屋敷御座候」と記す。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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