江良村(読み)えらむら

日本歴史地名大系 「江良村」の解説

江良村
えらむら

[現在地名]豊田町大字江良

山の東方山麓一帯の村で、木屋こや川の支流本浴ほんえき川と江良川が流れる。北は庭田にわた、東北方は阿座上あざかみ、南は西長野にしながの、西は華山山頂で上岡枝かみおかえだ(現菊川町)の各村に接する。長府藩領で豊浦郡豊田筋に属した。信仰の山である華山および神上しんじよう寺があることで早くより知られていた。

慶長一五年(一六一〇)検地帳城戸きど長野ながの・江良の合石で、総石高九〇〇石余を記す。豊浦藩明細書に総高二九九石余、うち田方が九町余で高二一五石余、畠方が一町余で高一〇石余とある。

「山口県風土誌」には村内の字として井出いではら徳仙とくせん奥小江良おくこえら下山げさん大日だいにちをあげるが、うち徳仙については「此所ニ森有之、其の森の内塚有之、是を往古より徳仙上人之塚と申、(中略)小名を徳仙と申伝候」と記し、墓の後ろに河内こうち社の跡がある。


江良村
えらむら

[現在地名]弥生町江良

門田かんた村の南西、番匠ばんじよう川支流提内ひさぎうち川流域に位置。恵良とも記す(豊後国志)。郷帳類では切畑きりはた村に含まれたと思われる。文政六年(一八二三)の懐中記(弥生町教育委員会蔵)に切畑村組の一村として村名がみえ、田高三六三石余・反別三二町二反余、畑高三〇七石余・反別四〇町九反余、免四ツ二分、御立林六ヵ所がある。旧高旧領取調帳では高七一八石余。享和三年(一八〇三)の郷村仮名付帳(佐伯藩政史料)によれば、地内に祇園ぎおん山田やまだひら玖土くど石原いしはら石打いしうち四反田したんだがある。慶長一四年(一六〇九)江良村で桑二一五本・梶九六株・茶八四株・漆五本、玖土村で桑一三九本・梶一四九株・茶四四株・漆七本を植えていた(「切畑村桑・梶・茶・漆改帳」同史料)


江良村
えらむら

[現在地名]福山市駅家えきや町江良

坊寺ぼうじ村の北に位置し、服部はつとり川が南流する。中世には芦田あしだ川の洪水により度々氾濫原となったと思われるが、水野氏時代の河道付替えにより土手が完成、以後水害をまぬかれた。中世には石成いわなり庄に含まれ(西備名区ほか)、延元元年(一三三六)に足利尊氏より石成庄地頭職を与えられた岡崎四郎義真の男江良忠実以後代々が居城したと伝える土居どい城跡がある(福山志料)。しかし当地には山城を構築する城山はなく、土居と称しているから居館跡であろう。江良氏は戦国時代は大内・尼子両氏と時の勢力にくみし最後に毛利氏によって滅ぼされたという(西備名区)。なお石成庄と岡崎氏の関係について記す近世の地誌は多いが、中世の史料では確認できない。


江良村
えらむら

[現在地名]矢掛町江良

浅海あすみ村の東、東流する小田川右岸にあり、阿部あべ山の北麓にあたる。北域を山陽道が横断する。奥山おくやま古墳片山かたやま古墳群などがあり、奥山古墳の箱式石棺から古墳時代中期のものと推定される銅鏡が出土している。

検討の余地は残るが「小田郡誌」に収める天正三年(一五七五)一二月一八日の毛利輝元宛行状に「弐百貫 江良村」とある。「小田物語」によれば元和五年(一六一九)旗本花房領となる。寛永備中国絵図では高九二二石余。延宝三年(一六七五)幕府領となり(小田物語)、同五年の検地帳(中川村誌)では古検有畝五六町九反余とあり、田方五〇八石余・三七町五反余、畠方一三二石余・二二町八反余、屋敷数九二筆(高二八石余)で、田は上田中田、畠は中畠・下畠が多い。


江良村
えらむら

[現在地名]西合志町合生あいおい

合志こうし台地の北西部、合志川塩浸しおひたし川に挟まれて西へ突出した舌状台地の基部に位置する。観応三年(一三五二)二月に書写された天満宮安楽寺領目録(太宰府神社文書)に「恵良庄」とみえ、安楽寺領で田租のみを負担する「半不輸」の荘園であったが、当時菊池武光ら肥後の南朝方勢力に押領されていたことが知られる。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳によれば、名請人一一、屋敷持七、田二一町一畝余、畠・屋敷一一町三反四畝余、分米三三九石一斗余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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